「自宅に帰れるのは月に1度」 80年代に爆発的人気を誇った漫画家・すがやみつるの多忙すぎた日々

漫画家・すがやみつる先生(74)の代表作といえば『ゲームセンターあらし』だ。日本中の少年少女を熱狂させたこの作品は、意外にも編集部から先生へのオファーから始まった作品なのだという。

すがやみつる先生【写真:本人提供】
すがやみつる先生【写真:本人提供】

『ゲームセンターあらし』発売日に緊急会議→増刷決定

 漫画家・すがやみつる先生(74)の代表作といえば『ゲームセンターあらし』だ。日本中の少年少女を熱狂させたこの作品は、意外にも編集部から先生へのオファーから始まった作品なのだという。(文=関口大起)

「『すがやさん、テレビゲームの読み切り漫画を描かない? 表紙に載せるカットは今日が校了なんだけど』という乱暴なオファーがあったんです(笑)。とりあえず5点くらい描いて渡すと、私的には3、4番手だったキャラクターが選ばれました。それが出っ歯の“あらし”です」

 そもそもオファーがあったのは、すがや先生が本格的な電子工作を趣味にしていたからだった。漫画制作はもちろん、他分野に興味を持ち、打ち込んでいたことが仕事につながった。

『ゲームセンターあらし』は、読み切り作品として2度、「コロコロコミック」の本誌と増刊号に掲載される。そして、その2本目が異例の人気作となった。なんと、『ウルトラマン』を売りにした『ウルトラマン』の情報が詰まった増刊号にもかかわらず、読者アンケートの人気票の8割を『ゲームセンターあらし』が獲得したのだ。

「1本目のテーマはブロック崩しで、ちょっと絵的に地味だったんですよね。ただ2本目は、『スペースインベーダー』を後楽園球場のスコアボードに映してプレイするという大袈裟な話になっていて。それがウケたんじゃないかと思っています。その反響もあって、『ゲームセンターあらし』を連載しようという話になりました」

 当時、「コロコロコミック」で『F・1キッド』という自動車レースの漫画を連載していたすがや先生だったが、『ゲームセンターあらし』の連載化に伴い、同作を終了させることになる。既存の連載をたたんで始めた新連載とはいえ、先生は多忙を極めた。月産ページ数は2、300ページにもなり、時には増刊用の原稿をプラスで100ページなどということもザラ。さらには原作担当をする作品のシナリオ執筆もこなす。自宅に帰れるのは、1か月に1度あるかないかだったという。

仕事の合間を縫って海外でリラックス「誰も追いかけてこないんですよ(笑)」

『ゲームセンターあらし』のコミックス1巻は1980年に発売された。部数は当時の最低ロットである初版2万5000部。しかし、これはうれしい誤算となる。なんと当日中に売り切れ状態となり、小学館に日本中から問い合わせが殺到したのだ。営業部は緊急会議を開き、その日のうちに4万部の増刷を決めた。

 以降も人気は衰えることはなく、82年にはアニメ放送がスタート。相当なハードワークをこなしていたすがや先生だったが、意識的な息抜きが支えとなったそうだ。

「こんなスタイルで仕事を続けているとノイローゼになる、なんて危機感もありました。あと、仕事ばかりしているとマンネリ化してくるんですよね。だからちゃんと息抜きもしないとダメだなと。石ノ森先生のように本を読んだり映画を観たり。あとは車のレースが好きだったので、無理やり休みを作って鈴鹿サーキットまで出掛けて行ったり。ル・マン24時間レースを観戦しに、フランスにも行きました。当時はネットもないし、携帯電話もないですから、海外に行けば誰も追いかけてこないんですよ(笑)」

 冗談のように話すすがや先生だが、漏れ聞こえる当時の漫画家の労働環境からは想像し難い。おそらく、休暇を取るにあたっての準備やコミュニケーションにも余念がなく、編集部からの信頼も厚かったからこそだろう。余談だが、ル・マンでは自動車メーカーの担当者と出会い、それが以降制作するビジネス系コミックの仕事にもつながったという。

 人気が出ていく過程も、多忙を極めた毎日も、語るすがや先生はどこか客観的だ。それは単に、“昔の話だから”というわけではない。大胆で荒唐無稽な『ゲームセンターあらし』の物語は、さまざまなことに興味を持ち、挑戦を続け、一方でクールに現状を見つめる先生だからこそ描けたのかもしれない。

○関口大起(https://x.com/t_sekiguchi_

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