古市憲寿氏「文春廃刊論」に異議あり…元テレ朝法務部長「なくてはならない被害者が駆け込む先」
元タレント・中居正広氏と20代女性の「トラブル報道」をめぐり、週刊文春は1月28日、記事の一部に誤りがあったとして訂正・謝罪した。これを受けて社会学者の古市憲寿氏はテレビ番組で「週刊文春は廃刊にした方がいい」とコメント。同31日にはXを更新してその真意を説明したが、元テレビ朝日法務部長の西脇亨輔弁護士は、この主張に「違和感がある」という。
西脇亨輔弁護士が考える「中居正広氏・フジ問題」の「誤報」
元タレント・中居正広氏と20代女性の「トラブル報道」をめぐり、週刊文春は1月28日、記事の一部に誤りがあったとして訂正・謝罪した。これを受けて社会学者の古市憲寿氏はテレビ番組で「週刊文春は廃刊にした方がいい」とコメント。同31日にはXを更新してその真意を説明したが、元テレビ朝日法務部長の西脇亨輔弁護士は、この主張に「違和感がある」という。
結論から言うと、私は古市憲寿氏の考えに賛成できない。
古市氏はXに長文を投稿。「今回のフジテレビ問題の『修正』に関して責任を取るという意味もありますが、文藝春秋社で働く社員を含めて、『週刊文春』が多くの人を不幸にする仕組みだと思う」と述べ「週刊文春廃刊」を訴えた。この投稿はSNS上の文春に対する反感の声に火をつけている。しかし、それは健全な言論なのか。
前提として、フジテレビ問題をめぐる今回の記事訂正についての文春側の対応は不適切だったと思う。トラブル当日に女性を誘ったのがフジテレビ幹部A氏ではなかったと分かった時点ですぐに訂正をすべきだった。
私は、週刊文春は昨年末の第1弾記事の時点から、トラブル現場に女性を誘ったのがA氏かどうか確信は持っていなかったのではないかと思っている。そう思った理由は、記事の「書き出し」だ。
自誌の取材結果のみで記事を展開することが多い週刊文春には珍しく、第1弾記事の書き出しはトラブルを最初に報じた「女性セブン」記事の引用だった。だが、実は文春記事では、元の記事の重要な部分が「消されて」いる。「女性セブン」記事の「ことの発端はA氏が中居に声をかけた飲み会だったという」などの「A氏が女性を誘った」という記載が週刊文春では外されていたのだ。さらにこの記事はよく読むと、女性がトラブル現場に「誰に」誘われたかという「主語」は書かれていない。女性が「Aさんに言われたからには断れないよね」と言っているのを知人が聞いたなど、A氏の影響を「匂わせる」表現はある。しかし、「A氏が女性を誘った」と断言する表現は使われてない。そして、フジテレビ側から抗議を受けると、第2弾記事には「女性を誘ったのは中居氏」と書き足していた。文春側は当初、「第1弾記事はA氏の関与を『匂わせた』だけだから『間違い』ではない」と思っていたのかもしれない。
しかしながら、その手法では今の世論の理解は得られない。名誉毀損の裁判では、記事内容は「一般の読者が普通の注意で読んだらどう理解するか」という基準で認定するが、文春の第1弾記事は一般読者が「A氏が女性を誘った」と理解するものと判断されるだろう。とすると、やはり第1弾記事は「誤報」と扱われるべきで、第2弾記事を出す際にはっきり「訂正」しなくてはならなかった。明確な訂正から「逃げて」しまったことは、報道内容全体の信用性まで落としかねない誤りと考えている。
だが、その上で古市氏の「文春廃刊論」は「違う」と私は思う。
古市氏は投稿で「文藝春秋社には文芸作品の出版など様々な仕事をしている人がいるのに「『週刊文春』のために、文藝春秋社のイメージがこれ以上悪くなることがとても悲しい」と述べている。だが、これは同社の内部事情で、外からどうこう言うことではない。古市氏自身も文中で述べている通り「文藝春秋社として社会的使命のために『週刊文春』を残したいというのなら、それは一つの経営判断」という話だ。
また、古市氏は、文藝春秋社も自社の不倫問題などを報じないと「フェアではない」とも主張している。だが、法律の世界では、正当な報道かどうかを決めるのは報道内容に「公共性」があるかどうか。有名スターや政治家など自分の顔を出して活動する「公人」の言動は公共性を帯びやすい一方で、出版社の従業員が「公人」扱いになるケースはさほど多くないだろう。もちろん、文春社内の出来事も公共性がある場合は報じなくてはならないが、「自分のことを報じないのに、他人のことを報じるのは不公平だ」というだけでは「何かずるい」という感情論の域を出ないのではないか。おそらく出版社従業員は、中居氏らほどの「公人」ではない。
文春がなくなれば、権力者には「心地良い世界」
その上で古市氏は「今回の一件で、『週刊文春』への信用は地に落ちた」「信用力が落ちた『週刊文春』は、社会的役割を終えた、というのが僕の意見です」と主張する。だが、本当に週刊文春は「社会的役割を終えた」のか。私はテレビ局の法務部長時代に週刊文春に大変な目にあわされてきたので肩を持つつもりはないが、近年、大きな問題となったニュースを振り返ると、がく然とする。
旧ジャニーズ事務所の性加害問題、松本人志氏の問題。
どの問題でも被害者が声を上げるために頼った先は週刊文春だった。これは偶然ではないだろう。今、既存メディアの多くは経営体力を失い、ゼロから事件を掘り起こす調査報道をする余裕がなくなっている。その中で、声を上げようとする被害者の多くが真っ先に思い浮かべるのは新聞でもテレビでもなく、週刊文春になった。いつの間にか他のメディアも、隠された問題を最初に暴く役割を週刊文春に頼り、その後追いを始めた。結果、週刊文春は暴かれた側からの批判を一身に集める立場になったが、その取材・報道は「社会的役割」を終えるどころか、「社会的役割」を一方的に託されてしまっているように見える。それが望ましい形かは別として。
今、この存在がなくなると、力を持つ相手から被害を受けた人が駆け込む先がなくなり、有名スターや権力者、これを取り巻く人々にとっては「心地良い世界」が訪れるだろう。だが、それは虐(しいた)げられた被害者の上に立つ「虚栄の楽園」だ。その裏に問題が隠されているなら、それを明らかにして楽園をひっくり返し、被害者の声を届ける仕組みがなくてはならない。
そのためにも私は「文春廃刊論」に与することはできない。一方で、今回の誤報への対応が不十分だと、さまざまな情報が飛び交うSNS時代の「最後の砦」となるべき報道機関全体への不信にもつながる。週刊文春が今回の誤報を徹底して検証すること。それは絶対に必要だと思う。
□西脇亨輔(にしわき・きょうすけ)1970年10月5日、千葉・八千代市生まれ。東京大法学部在学中の92年に司法試験合格。司法修習を終えた後、95年4月にアナウンサーとしてテレビ朝日に入社。『ニュースステーション』『やじうま』『ワイドスクランブル』などの番組を担当した後、2007年に法務部へ異動。社内問題解決に加え社外の刑事事件も担当し、強制わいせつ罪、覚せい剤取締法違反などの事件で被告を無罪に導いた。23年3月、国際政治学者の三浦瑠麗氏を提訴した名誉毀損裁判で勝訴確定。同6月、『孤闘 三浦瑠麗裁判1345日』(幻冬舎刊)を上梓。同7月、法務部長に昇進するも「木原事件」の取材を進めることも踏まえ、同11月にテレビ朝日を自主退職。同月、西脇亨輔法律事務所を設立。昨年4月末には、YouTube『西脇亨輔チャンネル』を開設した。