革新的だった恋愛漫画『Bバージン』誕生秘話 出版社を“二股”も成功せず…謝罪で実現した連載

軟派なラブコメ漫画として人気を博した『Bバージン』や著名人とのドキュメンタリー対談漫画『絶望に効くクスリ』などで知られる山田玲司先生は青年誌を主戦場に活躍する漫画家だ。手塚治虫先生に憧れて飛び込んだ漫画の世界だったが、なぜ少年誌ではなく青年誌を戦いのフィールドに選んだのだろうか。山田先生の意識を大きく変えた出会いとは――。

山田玲司先生【写真:本人提供】
山田玲司先生【写真:本人提供】

ヒット作は軟派な恋愛漫画『Bバージン』

 軟派なラブコメ漫画として人気を博した『Bバージン』や著名人とのドキュメンタリー対談漫画『絶望に効くクスリ』などで知られる山田玲司先生は青年誌を主戦場に活躍する漫画家だ。手塚治虫先生に憧れて飛び込んだ漫画の世界だったが、なぜ少年誌ではなく青年誌を戦いのフィールドに選んだのだろうか。山田先生の意識を大きく変えた出会いとは――。

 大学進学を機に小学館へ漫画を持ち込み、無事に担当編集がつくなど、トントン拍子で漫画家としての階段を登り始めた山田先生。このタイミングでその後の人生に大きく影響を与える人物と出会うこととなる。

「担当編集に言われるがままにひたすら漫画を読み、大量のネームを描くという日々を過ごしていました。そうこうしている中で、江川達也さんが『BE FREE!』でデビューして、スターになっていたんです。

 当時、江川さんは『モーニング』(講談社)で連載していましたが、『スピリッツ』が江川さんを引き抜きたくて、後の『月刊IKKI』編集長を務める江上英樹さんがずっと江川さんのもとに通っていたんです。江川さんからは『アシスタントが少ないから、連載できないよ』と言われたようで、『じゃあうちでアシスタント用意します』って。そこで白羽の矢が立ったのが僕だったんです。引き抜きの道具みたいなものでしたね(笑)。

 でもその前に僕は『美味しんぼ』の花咲アキラさんにアシスタントを断られてるんですよ。たぶん絵のタッチが合わなかったんでしょうね。なので、僕としては、江川さんに拾ってもらった形なんです。江川さんのもとで『BE FREE!』を1年間ぐらい手伝っていました」

 アシスタント作業をするようになり、自分の絵のヘタさを痛感したという。だが、「僕にとって屈辱が1番のエネルギーなんです」と突きつけられた現実を推進力に変えた。

「江川先生のもとで、『BE FREE!』の担当ともやり取りするようになって、小学館と講談社で“二股”かけるようになってしまったんです。できたネームは江川さんが見てくれるので、格段に漫画のレベルが上がりました。横にいたまだ素人だった藤島康介もものすごいスピードでレベルアップして、彼の方が先にデビューしましたね。その後に、僕も『コミックモーニング』(講談社)でデビューすることになりました」

小学館からの“刺客”で江川達也先生のもとでアシスタント

 小学館からのアシスタントとして江川先生のもとで経験を積んでいたが、気づけば講談社からデビューしていた。「その後に『ヤングサンデー』が創刊すると小学館から電話がきて『スタートから連載しないか』って。それで『やります』と答えたのが、大学3年生ぐらいの時でしたね。そこで初連載が決まりました」。

 紆余曲折がありながらも、大学生の内に漫画家デビューするという目標を無事に達成。イメージ通りの人生設計を進んでいるようにも思えるが、「強引でしたけどね」と笑う。

「絵が下手なのに美大に入ってしまったので、『世の中にはこんなに絵がうまいやつがごまんといるんだ』とめちゃくちゃあせりました。だけど、彼らにはアイデアがないんです。それに気づいてからは『僕でも勝てる』と思えるようになりました。漫画はアイデア勝負ですからね。

 たかはまこさんという漫画家の先輩が多摩美の4年生にいたんですよ、その人の彼氏が貞本義行さんでした。そんな中で江川さんのところに行ったら、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の原画を作っていたんです。現場に行ったらガイナックスの人たちがすぐ隣にいました。19歳の時にそういう環境に身を置けたことは僕の人生にとって大きかったですね。当時の最先端グループに合流できたのは、本当に強運でした。自分の才能ではなく、運に助けられました(笑)」

 手塚先生に憧れ、飛び込んだ漫画の世界だったが、山田先生は青年誌を主戦場とした。たがみよしひさ先生の存在が大きかったと影響を受けた先輩の名前を明かした。

「僕の青春時代は“スピリッツ黄金時代”でした。そのちょっと前に、ヤンジャンやヤンマガの人気に火が点いていて、憧れの雑誌はヤンジャン・ヤンマガ・スピリッツ。たがみよしひさ先生が『軽井沢シンドローム』をスピリッツで連載していて、衝撃を受けました。たがみ先生とあだち充先生の登場によって漫画業界が変わりました。軟派になりましたね。

 僕もあれにやられてしまって、子どもっぽい漫画を描くことがバカバカしくなってしまったんです。当時はバトル漫画も人気ありましたが、僕は別にモンスターと戦いたくないんですよ(笑)。それよりも女の子とラブホに行った時の会話とかが面白かったりするんです。そういった描写を何気ない日常として描いていて、『これはクールだな』って。『俺はこういうのを描きたい!』と気持ちが変わっていきました」

 当時の「週刊ヤングサンデー」の編集部については、「小学館の荒れくれ者集団でした」と振り返る。「やばい担当ほど僕の担当になるんです。『山田と組ませたら面白いんじゃない?』って。グラビアやサブカル系を担当していた編集者が『ヤンサン』に異動してきて、『今の漫画は面白くないから、俺たちで面白くしちゃおうぜ』みたいなノリでしたよ(笑)」。

挫折せずに続けられた理由「あのレベルの人でも自分から営業するんだ」

 順風満帆にも思えた漫画家としての歩みだが、何度も挫折も経験していた。「当時は描きたくてしょうがないのに連載させてもらえなかった」と苦笑いだ。

「デビューは早かったけど、その後がうまくいかなかったんです。割と大きな連載を5~6回失敗しました。『月刊アフタヌーン』でこけて、『ヤンサン』と『モーニング』もダメ。どうにもならず混乱していた時期もありました。その後、1991年に遊人さんが『ヤンサン』で連載していた『ANGEL』という漫画で有害コミック騒動で社会問題になりました。そのタイミングで僕がたまたま『ヤンサン』に持ち込んだんです。

『ヤンサン』で連載デビューしたのに、『ヤンサンでこれからは描くな』とモーニングに言われて、『ヤンサン』を辞めました。その後も『お前はアフタヌーンで描け』と言われて、モーニングで先にデビューしたし、江川さんのとこにいた義理もあるので、そこで連載しました。小学館にも謝って、『ヤンサン』さんから撤退して、『アフタヌーン』に移ったんです。そしたら、『アフタヌーン』でわずか2話で切られちゃったんです。それ以降、何の企画も通らなくなりました。ひどい話ですよ。その頃に、宝島に拾ってもらって、連載したりでギリギリ生きながらえました。

 その後に『あの時はすみませんでした。またやらせてください』と『ヤンサン』に持ち込んだんです。その時に僕が描いていたのが、ラブコメの『Bバージン』。ちょうど遊人さんの連載が休止になるタイミングだったので、入れ替わりで連載が決まりました。

 元々は『ヤンマガ』に持ち込むつもりで描いていました。でもいざ持ち込んでも、全く相手にしてくれなかったので、その場で『コピー機借りていいですか?』と講談社で原稿をコピーしてその足で小学館に行きました。そしたら『久しぶり!』みたいなノリで迎えてくれたんです」

 何度も挫折を経験しても心を折らずに頑張ることができたのは、“神様”と崇める手塚先生の教えが胸に刻まれていたからだ。

「手塚先生でもそうだったと聞いていましたからね。旧手塚担当の人が手塚先生から持ち込まれた企画で困ったことがあると言っていたんです。『うちの漫画じゃ連載できないけど、神様の原稿だしなあ……』と悩んでロッカーに塩漬けにしてしまったとかね。

 あのレベルの人でも自分から営業するんだと驚きました。だったら僕もダメなら次とガンガンやらなきゃなって。僕はそれですぐに相性のいい担当と巡り合えたので運が良かったんです。連載をいっぱい外していたので、『ここで当てないと終わる』という危機感はありました。本当に家賃も払えないので、無我夢中でした。『Bバージン』は、エンタメに振り切って『パンチラすらも描くぞ』と覚悟を決めていました」

 こうして『Bバージン』という代表作で一流の漫画家として名乗りを上げた山田先生。その後もコンスタントに新進気鋭な作品を世に放っていくのだった。

「手塚先生に限らず、それぞれの時代を本気で生きていて、ちょっとやばいことをやっていたみたいな人が僕は好きなんです。闇を抱えた変態な人が好きなんです(笑)。日本人は特にそういう人が多いですよね。島国だからこじらせてる人が多いのかもしれないね(笑)。僕はそんな変態な先輩たちが好きで憧れているんです」

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