中学生で出版社に持ち込み→玉砕 「バカ高校」から美大に進学…漫画家・山田玲司の“下剋上”

1990年代に「週刊ヤングサンデー」(小学館)で連載していた『Bバージン』は、当時としては革新的なラブコメ漫画として人気を博した。同作を描いていたのが山田玲司先生だ。手塚治虫先生から多大な影響を受けていたという山田先生の漫画家という職業に至るまでの道のりをたどった。

山田玲司先生【写真:本人提供】
山田玲司先生【写真:本人提供】

指針にした“漫画の神様”手塚治虫先生の教え

 1990年代に「週刊ヤングサンデー」(小学館)で連載していた『Bバージン』は、当時としては革新的なラブコメ漫画として人気を博した。同作を描いていたのが山田玲司先生だ。手塚治虫先生から多大な影響を受けていたという山田先生の漫画家という職業に至るまでの道のりをたどった。

 山田先生が幼少期に抱いていた夢は「画家」や「恐竜学者」。「その時に楽しかったことを仕事にしたい」とぼんやりと考えていた。「画家は大変そう、学者は勉強しなきゃいけない。その時好きだった漫画が1番自由だなと思ったんです」。

 山田先生が小学生だった当時は、「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)の黄金期。『ドカベン』や『マカロニほうれん荘』を目当てに山田少年も毎週のように購入していたという。

「当時のチャンピオンには『ブラック・ジャック』が載っていました。1つだけ大人な作品だなと感じていました。『手塚って人は偉い人らしい』というのはなんとなく分かっていました。

 その後に、『100万年地球の旅 バンダーブック』などで第2期の手塚黄金時代が始まるんです。その時に40代だった手塚先生が『マンガの描き方』って本を出してくれたんです。それを読んで漫画家になると決めましたね。

 その本の中には、『漫画家はデタラメをやれ』と書いてあったんです。“神様”手塚先生が『基本的人権だけ守ってめちゃくちゃやれ』って。『俺にはこれしかない』って小6の頃に決意しました」

 漫画家という明確な目標を掲げ、持ち前の行動力で夢へと走り始めた。13歳という年齢で出版社への持ち込みにも踏み切った。「何も知らなかったので、描いたら持っていけばいいと思っていました」と当時を振り返る。

「最初は無地ノートで何冊も単行本を作りました。勝手に自分の中で連載しているんです。20巻以上描きましたね。鉛筆で描いているし、めちゃくちゃ下手で読めたもんじゃないです。でも中学生になったら、『マンガの描き方』を読んでるから、ケント紙を買って、16ページで描くようになりました。表紙も自分で作ったり。“神様”が道具まで全部教えてくれたんですよね。スクリーントーンまで貼って、出来上がり。『次は持ち込みだ!』と、ただそれだけでした」

中学生で持ち込むも玉砕「反省しましたね」

 電話でアポを取り、向かったのは当時黄金期だった「週刊少年チャンピオン」を刊行する秋田書店だった。

「編集の人は優しかったですよ。当時は僕みたいな、よく分かっていないのに持ち込みする人がいっぱいいたんだと思います。一通り目を通してもらって、『これからもいっぱい描いて頑張ってね』と言われたら、その後は社会科見学でした。『編集部見てくかい?』って。

 上の編集部にお邪魔させてもらったら、プロの原稿がいっぱいあるわけです。そこで初めて手塚先生の生の原稿を見させてもらって、反省しましたね。『プロはずるいことしてるのかな?』とか思っていたんですけど、普通に同じ道具、人の手でちゃんと作っているんです。理屈抜きでレベルの違いを見せつけられました。

 僕は、手塚先生の『マンガの描き方』に書かれていたことを1つ無視してしまったんです。『プロになりたい人は持ち込みなどせずに』と書いてあったのに、それを無視して勇み足になってしまったので、反省しましたね。

 それからは、『とにかく毎月描くぞ!』と心を入れ替えて、勝手に月刊連載を始めました。ジャンルにもこだわらず、とにかくなんでも描きました。SF描いたから次はラブコメ、その次は不条理モノや4コマとかね。めちゃくちゃ下手でしたが関係ないんです。どこかに発表するわけでもなく、とにかく描き続けました」

 中学時代は化学部に所属していた山田先生。この経験が後のヒット作『Bバージン』にもつながってくる。その後、高校に進学するも「授業中も漫画を描いていたので、本当に成績はひどかった」と苦笑いだ。

「高校は本当に“バカ高校”でした。僕は小さい頃からボーイスカウトに入っていて、その当時の友達がそのままヤンキーになっていたんです。そんなこともあって、友達にもヤンキーが多かったんですよ。高校で出会っていたら、友達にはなっていなかったと思いますが、小さい頃から一緒だったのでヤンキーとか関係なかったんです。

 漫画を描いたら、必ず学校に『新作できたぞ』って持っていってました。それでヤンキーたちにボロクソに言われるんですよ。『ほんとへただな』『うるせぇ!』みたいな(笑)。『次は見てろよ!』と、その繰り返しでした。今も保管してありますけど、ひどすぎて、よくこんな漫画で偉そうにしてたなと自分でも思いますよ」

受験生になってからは“漫画断ち”…必死の猛勉強で現役合格

 そんな高校生活を送る中、「ここにいたら本格的にヤバい」と感じ、猛勉強を重ねるようになった。「同じクラスでも大学受験する人は僕以外に1人ぐらいでしたね。『どうせ受かんねえのにバカじゃねぇの』とも言われました」。

 受験生となった高3時には、漫画を断ち、自分にプレッシャーを掛けながら、必死に受験勉強に励んだ。「高校の授業にもほぼ行かず、予備校に通っていました。そこで何浪もしている予備校生を見るわけです。『俺は絶対にこんなふうにはなりたくない』と焦りました。親父にも『浪人はさせない』と言われていたので、絶対に現役で受かりたかったんです」。

 必死の努力が実り、多摩美術大学に現役合格。その後は漫画家になるための道のりを突っ走るだけだった。

「高校2年までは毎月漫画を1作以上描き続けていましたが、持ち込みは1度もせず、我慢していました。大学に合格してからは、『これからが戦いだ』という気持ちになりましたね。『満を持して俺が出てくるから待ってろ』みたいなね(笑)。今考えると調子に乗っていましたね。

 いざ大学に入学したらリミットは4年間しかない。卒業して就職はしたくなかったので、卒業するまでにデビューして連載をしている必要があったんです。18歳から持ち込みに行くようになりました。『ビッグコミックスピリッツ』の小学館に行って、そこで初めて担当がつきました」

 これを機に、山田先生の漫画家としての人生が始まったのだった。

次のページへ (2/2) 【動画】当時の少年たちは仰天…山田玲司先生が世に放ったお色気アリのラブコメ『Bバージン』
1 2
あなたの“気になる”を教えてください