自衛隊→漫画家の異色経歴を選んだ藤原さとし 過酷な自衛官生活も「楽しかった」と言えるワケ
一人の青年が一人前の自衛官になるまでの日々を描いた漫画『ライジングサン』シリーズは現在も「漫画アクション」(双葉社)で続編『ライジングサンR』が連載中だ。一般社会で生活していると、どこか遠い存在に思えてしまう自衛隊の内部がリアルに描かれているのは、作者の藤原さとし先生が元自衛隊員だったからだ。自衛隊員から漫画家という異色のキャリアを選択した理由を聞いた。
過酷な自衛官生活が今に生きる
一人の青年が一人前の自衛官になるまでの日々を描いた漫画『ライジングサン』シリーズは現在も「漫画アクション」(双葉社)で続編『ライジングサンR』が連載中だ。一般社会で生活していると、どこか遠い存在に思えてしまう自衛隊の内部がリアルに描かれているのは、作者の藤原さとし先生が元自衛隊員だったからだ。自衛隊員から漫画家という異色のキャリアを選択した理由を聞いた。
大阪で生まれ育った藤原先生は、幼少期から絵を描くことが好きだった。「勉強が苦手で唯一褒めてもらえるものが絵でした。それがうれしくて、絵ばっかり描いていたので、必然的に漫画を描くという流れになりましたね」。
1番最初に購入したのは『Dr.スランプ アラレちゃん』。初めて全巻を買いそろえたのは、あだち充先生の『みゆき』だった。さらに『ベルセルク』で衝撃を受けたことで漫画家という職業が現実的な選択肢となっていった。
一方で、中国古典を読んだり、特に孫子などの兵法書が好きだったという藤原先生は、軍事系の仕事にも興味を抱いていたという。そういった経緯もあり、小学生の時から将来の選択肢は漫画家と自衛隊の2択だった。いきなり漫画家になることは難しかったこともあり、自然な流れで入隊の道を選んだ。
「母親からは『あんたは毎日同じことをやると飽きちゃうだろうから合ってんじゃない?』と言われましたね。ただ、祖母は満州からの引き上げを経験していた人だったので、『せっかく平和なのに、なんでわざわざそんなしんどい思いするの』とボソッと言われて、心配かけることになるんだなとは思いましたね」
入隊した初日のことは鮮明に覚えているという。「朝7時ぐらいに自宅まで車で迎えに来てくれましたね。逃げないようになのかもしれないですけどね(笑)。駐屯地に到着したら、自分と似たような連中がいっぱいいました。部屋に案内されて、いよいよ始まるんだなという感じでした。班長らとの顔合わせがあって、そこから装備品一式を受け取りに行って、これが自分のモノなのかという気持ちになりましたね」。
その後、徐々に自衛隊らしい厳しさが伴ってくるようになった。「最初は上の人たちも『不安ない?』とか優しく聞いてくれるんですよ。仲良く覚えていきましょうみたいな雰囲気だったんですけど、週明けとかに『もう研修は終わりだよ』みたいな空気になりましたね。ただ、あまり厳しすぎると辞めちゃうので、その辺りの塩梅みたいなものはうまかったですね」。
中学生から空手を習っていた藤原先生にとって、訓練についていくことはさほど難しいことではなかったという。「走り込りみはやってこなかったので、不安でしたが、気がついたら何キロでも走れるようになってましたね」と笑う。
1任期で自衛隊を辞め、漫画家の道を選択
入隊したての頃は現在の自衛官候補生と同様の位置づけで、基礎訓練に打ち込む日々だった。3か月で候補生を卒業した後に、希望する職種の部隊を選ぶこととなる。
「パラシュート降下を見たときに、スペシャリストっぽいなと思ったりしたこともあって、空挺希望だったんです。でも適正検査で弾かれてしまいました。今でも空挺は入りにくいと言われていますし、普通の部隊とは多少違うんですよね」
その後、普通科隊員となったが、当時の思い出を振り返る。
「銃剣道が得意でした。でも僕は大嫌いでした(笑)。銃とか打ちたいんですよ。でもずっと、ど突き合いで、防具つけても痛いんです。当時の自衛官の評価軸は柔剣道と持続走と射撃競技会の3つ練度が指標でした。走るのが速い人はずっと走り続けていて、走りすぎて疲労骨折とかしてましたね。
理不尽な指導と感じたことはあまりなかったです。ああいうのってケガをさせられない限りは、受け手側がどう感じるかによる部分が大きいと思うんです。僕はむしろそういう世界を望んでいたので、注意される時は自分が至らないからだと受け止めていました。もちろん、怒鳴ったり、手を上げたりは、もっと別の方法があるだろうとは思います。でも、レンジャーとか非日常すぎる環境の場合は、危険と隣り合わせなので、命を守るために、目を覚まさせる意味で体への衝撃を与えなくてはいけない瞬間は間違いなくありますね。
駐屯地では、草刈りや洗濯、機密文書の焼却など、いろんな生活を営むための仕事もあるんです。皆さんがイメージしているような泥だらけの訓練を毎日しているわけではないですよね。そういうのは、演習の時ぐらいでしたね」
自衛隊は約2年間が1任期となるが、藤原先生は1任期で辞めることを選択した。「自分で望んで入ったこともありますが、楽しかったですね」と厳しさなどが原因で辞めたわけではなかった。
「別にやりたいことがあったのが1番の理由でした。自衛隊自体は全く嫌ではなかったです。その後、やりたかったことはうまくいかなくて、父親が大阪の実家で水道工事の会社をやっていたので、その手伝いをしていました。でも、20歳ぐらいの時に『俺は親のスネをかじって何をやってるんだろう』と思ったことをきっかけに漫画を描き始めました」
自衛官になる前は選択肢の一つだった漫画家だったが、入隊を機に漫画道具は全て捨ててしまっていた。そのため、ペンなどを新しく買いそろえての挑戦となった。
「地元の同級生だった友人がすでに東京で漫画家デビューしていて、ちょうど大阪に帰ってきていたんです。久しぶりに会って、『実は漫画を描いていて、これどう?』と見てもらいました。すると、『これ絶対賞取れるよ』と言ってもらえたんです。それを励みに描き切って、送ったら入賞したんですよ。その当時の小学館の副編集長が気に入ってくれて、『東京遊びにおいでよ』となって、その流れで『漫画家やろうよ』と声を掛けてもらえました」
その後、漫画家となった藤原先生が『ライジングサン』に出会うまでには紆余曲折の道のりが待っていた。