朝倉海に噛みついた22歳・鶴屋怜とは何者か 3歳でレスリング始めた格闘エリート…高校時代には家出も
「自分には格闘技しかない」。21歳でUFCとの契約を自らの手で勝ち取った。プロ10戦無敗、世界の舞台で戦う新星は格闘技人気とともに成り上がったわけではない。格闘一家に生まれ、幼少期からプロ格闘家に囲まれながらトレーニングを積んできた。昨年12月、朝倉海のUFCデビュー戦後に「UFCのチャンピオンにふさわしくない」と即座に投稿したUFCフライ級ファイター・鶴屋怜(22=THE BLACKBELT JAPAN)とはいったい何者なのか。新春インタビューPart1。
新春インタビュー企画Part1
「自分には格闘技しかない」。21歳でUFCとの契約を自らの手で勝ち取った。プロ10戦無敗、世界の舞台で戦う新星は格闘技人気とともに成り上がったわけではない。格闘一家に生まれ、幼少期からプロ格闘家に囲まれながらトレーニングを積んできた。昨年12月、朝倉海のUFCデビュー戦後に「UFCのチャンピオンにふさわしくない」と即座に投稿したUFCフライ級ファイター・鶴屋怜(22=THE BLACKBELT JAPAN)とはいったい何者なのか。新春インタビューPart1。(取材・文=島田将斗)
父は元格闘家で総合格闘技界の名門ジム・パラエストラ千葉ネットワーク(現在はTHE BLACKBELT JAPAN)の総帥、物心つくかつかないころから“格闘技”と触れあっていた。レスリングを始めたのは3歳。幼稚園のころから頭角を現し全国大会に出場し実績を積んできたが、当初は「マット運動」のような感覚だった。
「お父さんがどれぐらい格闘技をやっているのか分からなかったです。でも周りにはプロ格闘家がいっぱいいました。扇久保(博正)さんとか岡田(遼)さんがずっと自分たちと遊んでくれて。扇久保さんを『おうちゃん、おうちゃん!』って呼んでて(笑)。あのころは何も分かってなかったですね」
レスリングという競技は五輪のハイライト映像では豪快な投げ技にフォーカスされるが、練習は地道な打ち込みなどの反復練習の繰り返しが多い。この基礎固めが何よりも大事なスポーツだ。鶴屋も幼少期から1日3時間の練習。夏休みにクリスマスはない人生を送ってきた。
「地味というか同じことを何度も反復するんです。毎日練習にいったらタックルの打ち込みを何百回もやって、そのあとにスパーリングをやってみたいな。幼稚園、小学生の自分からしたらもう飽きちゃって。もうずっと辞めたいと思っていました」
「やらされている」の感覚がずっとあった。小学2年生時にどうしても辞めたいと父に相談。当然のように跳ね返されたが、全国優勝すれば興味のあったボクシングジムに通わせてもらえる、という約束をこぎ着けた。2年後に全国大会で優勝しボクシングに挑戦したが、ここで格闘技の厳しさを味わった。
「ボクシング界は幼稚園のころからずっと積み重ねてきてるやつがいっぱいいるんです。俺は逆にレスリングでそう育ってきた。だからボクシングではこれまでのように勝てなかったんです」
それまでレスリングでは大会に出れば当たり前のように決勝にいた。2年間ボクシングを続けたが、中学入学とともにレスリングに戻った。「そうしたら今度はボクシングを2年間やったせいでレスリングが弱くなっちゃって……」と当時を振り返る。
希望を持てないなかで、たまたま見たのが総合格闘技最高峰のUFCの試合だった。
「『これって何?』って父に聞いたら総合格闘技だと教えられて。そこから『これがやりてぇ』となりましたね。ボクシングもやってるし、レスリングもあるし『俺行けるかも』って」
高校時代は現在と身長変わらず51キロ級の試合に出ていた
高校には行かずに総合格闘家になろうとするも、MMAジムで総帥を務める父は反対。たまたま家の近くにあったレスリング日本一の高校・日体大柏に入学した。当時は、のちにチームを何度も優勝に導くことになる監督・大澤友博さん(2024年9月に死去)が赴任したばかり。ここでも地獄のような毎日が待っていた。
「本当に1番きつい時期。レスリングの練習もめちゃくちゃキツイんですけど、先生が怖すぎる(笑)。精神的にも追い込まれました。レスリング界の魔王って言われてるんですよ。自分も良い子ではなかったので、その人にめちゃくちゃいろいろ言われるのは、結構メンタルにきましたね」
「刑務所のよう」と振り返る3年間。思い出すだけできついのか、思わず顔をしかめていた。
「まず朝6時20分から朝練がスタートするんです。冬とかはもう真っ暗ですよ。それなのにもう死ぬほど走らされるんです。サッカー場を何往復もさせられて、目標の秒数に入れなければもう1回。朝練がみんな嫌だし、なんなら朝練の方が通常の練習よりキツイんですよ」
午後の練習は2時間半。いまでも身に沁みついてしまっている忘れられない光景があるという。
「大澤先生がいないときは、みんな“普通”に練習をするんですけど、大澤先生が練習場のドアをガチャっと開く瞬間、その音がした瞬間に、みんな一気に切り替えて、より練習をするんです。ちょっとでもふざけてると思われると『もう1回やり直しだ』とか始まるので。
先輩がスキー合宿に行って2キロ増えて帰ってきたことがあって、そのときに『練習もしないで何増えてるんだ』って体重を落とすまで練習させられていましたね。部屋をめっちゃポカポカにして」
体重管理も選手の仕事のひとつだった。
「自分の体重を書いていくんですけど、もうみんな嘘を書くんですよ。3キロオーバーまでOKだとしたら平気で5キロオーバーしていました。だからみんな試合のときは必死で落とす。飯は抜こうと思っても疲れてお腹が減ってしまうので、抜けなかったですね」
高校時代、なによりも苦しかったのは減量だ。現在と同じ身長168センチで当時出場していたのは51キロ級。体重を落とすだけでなく、環境も鶴屋の心をむしばんでいった。
「インターハイは4日間計量をしないといけなくて。自分が代表として現地に行っているんですけど、もうひとり代表の子がいて、自分がいくら減量をしていても試合に出させてもらえないこともありました。51キロ級って一番軽い階級だから責任も重かったですね」
減量をしても試合に出してもらえない。精神的なきつさからレスリングが嫌いに。いまの姿からは想像もつかないが、家出をして1か月間逃げたこともあったという。
「今考えたらあれだけキツイことってないんです。だから逆に3年間頑張ってよかったなと。精神的にはめちゃくちゃ強くなりました」
その後は18歳で晴れてプロ格闘家としてデビュー。UFCファイターとして戦っている現在までのプロ戦績は10戦無敗だ。格闘一家に生まれ、常に期待を寄せられるが、心労はない。同じく鶴屋家に生まれた兄・健人への思いがより世界で戦う覚悟を強くさせている。
「お兄ちゃんに“格闘技の才能あって、いつも優勝しておもちゃ買ってもらっててうらやましかった”ってこの前言われたんです。『え、俺はそんなこと気にしたことないよ』って返したんですけど、格闘一家に生まれてお兄ちゃんは背負ってしまう、考えてしまう部分があったんだなと。自分よりもお兄ちゃんが俺と比べられてかわいそうだなってことはあります。だからこそ自分には格闘技しかない、もうこれに100%しかないって思ってますね」