矢沢永吉との確執報道に「きっと後悔も」 ジョニー大倉さんが病床で語ったキャロルへの思い
歌手で俳優のジョニー大倉さん(享年62歳)が2014年に他界して今年で10年。1970年代にさんぜんと輝く伝説のバンド・キャロル(72年結成、75年解散)のメンバーとして一時代を築き、解散後はソロ活動と並行して俳優業に進出し映画やドラマなど数々の作品に出演した。そのジョニーさんの長らく廃盤だった幻の名盤2作品『ポップン・ロール・コレクション』『ロックン・ロール・ドキュメント’77』が11月20日に復刻CDとして発売された。ロックのスタンダードナンバーのカバー集と1977年のライブの模様を収録した2作品で、あの甘い歌声が響く――。今も色あせない音楽、そして存在感ある役者として芸能界に確かな足跡を刻んだジョニーさん。一方で、キャロルのリーダーだった矢沢永吉との確執やホテル上階からの転落事故など破天荒なイメージも尽きなかった。そんなジョニ―さんを間近で見てきた、歌手で俳優の長男・ケニー大倉が父と息子ならではの絆を感じさせる“独占手記”をENCOUNTに寄せた。前後編でジョニ―さんの“知られざる素顔”や波乱な人生を振り返る。後編は「ジョニー大倉が語った“矢沢永吉”、そしてキャロルへの思い」。
ジョニー大倉さん没後10年~息子・ケニー大倉からの独占手記・後編
歌手で俳優のジョニー大倉さん(享年62歳)が2014年に他界して今年で10年。1970年代にさんぜんと輝く伝説のバンド・キャロル(72年結成、75年解散)のメンバーとして一時代を築き、解散後はソロ活動と並行して俳優業に進出し映画やドラマなど数々の作品に出演した。そのジョニーさんの長らく廃盤だった幻の名盤2作品『ポップン・ロール・コレクション』『ロックン・ロール・ドキュメント’77』が11月20日に復刻CDとして発売された。ロックのスタンダードナンバーのカバー集と1977年のライブの模様を収録した2作品で、あの甘い歌声が響く――。今も色あせない音楽、そして存在感ある役者として芸能界に確かな足跡を刻んだジョニーさん。一方で、キャロルのリーダーだった矢沢永吉との確執やホテル上階からの転落事故など破天荒なイメージも尽きなかった。そんなジョニ―さんを間近で見てきた、歌手で俳優の長男・ケニー大倉が父と息子ならではの絆を感じさせる“独占手記”をENCOUNTに寄せた。前後編でジョニ―さんの“知られざる素顔”や波乱な人生を振り返る。後編は「ジョニー大倉が語った“矢沢永吉”、そしてキャロルへの思い」。(取材・構成=福嶋剛)
キャロルは僕が3歳の時に解散して、物心がついた時、親父は役者をやっていました。おふくろはキャロルについての話は一切しなかったので親父がキャロルにいたことはもちろん、ロック歌手だったことさえ知らずに育ちました。ちなみに初めて買ったレコードは矢沢永吉さんの『共犯者』(1988年)で、親父との関係を何も知らずによく聴いていました。
僕が高校2年の時、親父はそれまで封印していたロックを解禁してTHE PLEASEというバンドを40代で立ち上げました。メンバーは、キャロルのメンバーだった内海利勝さん、THE 虎舞竜の高橋ジョージさん、田中清人さん、そして親父の4人。昔から親父と仲の良かった3人のおじさんたちに混じって、役者の親父がいつものブーツを履いて、今まで見たことのないリーゼントに革ジャン姿で登場したので、「まるでキャロルみたいでカッコいいじゃん!」と思っていたんです。それまで全然気づかなかったんですが、そこで初めて親父がキャロルのメンバーだったことを知りました。
その後、僕は19歳で家を出ました。親父とは別々の生活を送っていましたが、ジョニーの息子ということで2世タレントとしての葛藤にも悩まされました。偉大すぎる親父を持ち、自分の名前を呼ばれずに“大倉ジュニア”と呼ばれ、「ジョニーの息子なんだからもっと不良っぽく生きなよ」なんて言われ、プレッシャーに押しつぶされて、何度もこの世界から身を引こうと思いました。時には親父を憎み、心の距離がどんどん離れていったこともありました。
親父は2009年に悪性リンパ腫を克服し、再び元気な姿で戻ってきました。そんなタイミングで僕は1年間限定で親父の付き人をやることになりました。当時はVシネマの主役など、役者の仕事も多く、またミュージシャンとしても全国に何十店舗もあったオールディーズ系ライブハウス「ケントス」を一緒に回りました。付き人の間は「ジョニーさん」と呼んでいました。僕は親父のことを一番分かっていた人間なので、親父も「賢一(ケニー大倉の本名)は今までの付き人の中でも一番いい」と周りの人に漏らしていたそうです。一方で芸能人として誰よりも自分に厳しいジョニー大倉のプロ根性を間近で見ることができました。
親父は、転落事故(87年)の時も悪性リンパ腫になった時もこの世界に戻ってきて「不死身の男」だと思っていましたが、2013年に肺がんと診断され、余命2週間と宣告されました。親父は必死に病魔と闘い、翌年退院するなど不死身ぶりを見せてくれましたが、がんが再発し、その年の11月19日、62歳で亡くなりました。
僕は余命宣告を受けてから、毎日病院に通い、「親父は負けない。絶対に治るから大丈夫!」と親父を励まし続けました。それから親父が亡くなるまでの約1年間は、冷えた親子関係を修復するに十分な時間でもあり、稀代のスター、ジョニー大倉の本当の声を聞く最初で最後の機会でした。
ベッドの上で親父は僕に向かって「優しくしてあげられなくてごめんな」と謝ってくれました。「キャロルでスターになっちゃったからさ、賢一のことをあんまり見れなかったんだよ。最初の息子だったし、厳しく育てなくちゃいけないと思ってさ」と。親父はずっと僕のことを気にかけてくれていて、19歳で家を飛び出して風呂なしアパートで頑張っていた時期も「賢一だったら大丈夫」とおふくろに言って遠くから見守ってくれていたそうです。そんな親父の言葉を聞いて、ジョニーの息子として背負ってきた全ての苦しみから解放されました。この時、毛利姓から大倉姓に名前を変えて、「この人のために生きていこう」と決断しました。
そしてもうひとつ。病室でジョニーがよく口にしていたのが「永ちゃん(矢沢永吉)に会いたい」「もう1回キャロルをやりたい」でした。
キャロルは死ぬまで愛し続けた存在
ジョニー大倉は、日本のロックのオリジネイターでもありました。スタンダードなロックンロール・ナンバーに日本語の歌詞を乗せて英語と日本語のちゃんぽんで歌う先駆者でもあります。今回没後10年のタイミングで幻の名盤となっていた『ポップン・ロール・コレクション』も単なる訳詞ではなく、カッコいい日本語に代えて歌っていて、その発想や言葉を操る能力はキャロル時代から、ずば抜けていたと思います。
そして、ロックンローラーのスタイルでもあるリーゼントに革ジャン、ブーツというスタイルをキャロルに持ち込んだのもジョニーです。矢沢さんもビートルズが好きでしたが、親父はビートルズがデビューする前の、革ジャンにリーゼントの格好が大好きだったみたいで、そこからの発想だと聞きました。
さらに、ソロシンガーとして矢沢さんに続いて日本武道館に立った2人目のソロシンガーがジョニーです。今回、その時の武道館公演と日比谷野外音楽堂のライブを収めたライブ盤『ロックン・ロール・ドキュメント’77』も復刻しました。
このように矢沢さんとの“ご縁”はいろいろな形であったと思いますが、一方でメディアを通して、たびたび矢沢さんとジョニーの確執が取りざたされてきました。
親父は、病床で矢沢さんとのことについてもいろいろな話をしてくれました。改めて感じたことは、やっぱり親父はずっと矢沢さんを慕っていたということでした。偉大な兄に負けまいと意地を張ってきた破天荒な弟・ジョニー大倉との兄弟ゲンカだったのかなって。マスコミは常に2人の関係を面白おかしく扱ってきましたけど、実際はそうじゃなかったんだと分かりました。
きっと矢沢さんも手の付けられない弟のヤンチャぶりを見て「このバカ者が!」って思っているんだろうなって想像していました。親父は亡くなる前まで矢沢さんのことを気にしていて「永ちゃんに会いたい」と何度も口にしていました。そして「キャロルをもう1回やりたい」ということも。ジョニーにとってキャロルは死ぬまで愛し続けた存在でした。きっと後悔もあったんだと思います。
父親としての大倉洋一は、家族と一緒にいる時が一番好きな、最後まで家族を愛した男でした。一方でジョニー大倉は人間離れした才能と行動力の持ち主で、一歩たりとも近付けなかった……。僕にとっては“神のような存在”でした。
来年、2025年はキャロルが解散して50年を迎えます。同時に矢沢さんも、ジョニーもソロ活動50年にあたる年です。僕も50代になり、芸能活動35周年に突入しました。まだまだ親孝行はできていませんけど、これからもさまざまな活動を通してジョニー大倉が生きていた証を次の世代に伝えていきたいと思います。
□ジョニー大倉 本名・大倉洋一。1952年9月3日神奈川県川崎市出身。72年、ロックバンド、キャロルのメンバーとしてデビュー。ボーカル・ギター、作詞を担当。75年、キャロル解散。ソロミュージシャン活動と並行して、俳優活動を開始。81年、映画『遠雷』で日本アカデミー賞優秀助演男優賞受賞し、映画、ドラマなど多数出演。プライベートでは87年10月、富山市内のホテル7階から転落し、全治6か月の重傷を負った。2009年、悪性リンパ腫を乗り越え、都内ライブハウスなどで精力的にライブ活動を実施。13年5月、肺がんにより余命2週間の宣告を受けるも治療に専念し、4月13日に銀座タクトにて奇跡の復活ライブを開催した。けがや病と闘ってきたが、14年11月19日、肺炎により62歳で逝去。
□ケニー大倉 本名・大倉賢一。1972年10月23日、神奈川県川崎市出身。ジョニー大倉の長男。父が柴田恭平と共演した映画『チ・ン・ピ・ラ』に感銘を受け俳優を志す。89年、映画『嵐の中のイチゴたち』で準主役を演じ俳優デビュー。この作品で親子で初共演を果たす。以降、ドラマ、映画など多数出演。90年代はCMナレーターとして大手企業CMをはじめ、年間約120本のCMナレーションを担当。ミュージシャンとして2018年4月13日に初のソロシングル『泣かないでベイビー』を発売し、本格的ソロ活動を開始した。