給料25万円予定が遅配で10万円のWJプロレス時代→今や“スターダムの顏”に…波乱万丈のリングアナ人生
プロレス団体は、選手だけでは成立しない。その中でも、表舞台と裏側の両方を熟知している存在、それがリングアナウンサーだ。今回は、フリーながらスターライト・キッドから「スターダムファミリーの一人」と称されている安藤頼孝リングアナウンサーにインタビュー。“あの”全日本女子プロレスでデビューした彼は、どのような経歴を辿ってきたのか。
業界の酸いも甘いも知り尽くした安藤頼孝リングアナ
プロレス団体は、選手だけでは成立しない。その中でも、表舞台と裏側の両方を熟知している存在、それがリングアナウンサーだ。今回は、フリーながらスターライト・キッドから「スターダムファミリーの一人」と称されている安藤頼孝リングアナウンサーにインタビュー。“あの”全日本女子プロレスでデビューした彼は、どのような経歴を辿ってきたのか。(取材・文=橋場了吾)
安藤が全日本女子プロレスのリングアナウンサーに採用されたのは2000年5月のこと。すでに2回の不渡りを出して倒産状態だった全女だが、堀田祐美子・豊田真奈美を2TOPとして、のちに『キッスの世界』として歌手デビューもする中西百重・高橋奈苗(現・奈七永)・脇澤美穂・納見佳容を擁していた。
「倒産していたとはいえ、普通に会場を取って使用料を払って興行を打って、ということをやっていました。今は会場費の前払いが一般的ですけど、当時は当日現金取っ払いができた会場もまだ多くて。まあ、自転車操業ですよね(笑)。私はサラリーマンをしていたのですが、休憩中に読んでいた週刊プロレスと週刊ゴングに全女のリングアナの募集があって応募したのですが、半年ほど音沙汰がなくて……(笑)。それで連絡があったと思ったら、5月1日入社で10日後にはリングアナデビューという。
当時は今井(良晴/故人)さんがいらっしゃったんですが、地方はあまり来られなかったので自分がほぼ全部やっていました。そこで、リングアナの仕事のすべて……コールはもちろんですが、進行や音響設備の設定の仕方や、リングの作り方まで学びました。実はその前にパンチ田原さんにも面接してもらって、『せっかくサラリーマンをやっているなら、この業界には来ない方がいい』と不採用になっていたんです。でも、この業界に入ってしまいました」
安藤のSNSでは恒例の「リング組むぜ~」。リングアナウンサーの仕事は、お客さんが入る前から始まっている。
「インディー団体や女子団体は、どこもリングアナやレフェリー、選手もリングの設営から入っていますし、僕らはリングや荷物の運搬もします。(SNSについては)最初はどこどこの会場で試合しますよという告知でやっていたんですが、団体の公式とは違う告知にしてみようと思って始めました。全女に入ったときに今井さんに言われたのは『リングアナの仕事が10あるとすれば、当日の進行・コールは1から2の分量だよ』と。まさにそんな感じですよ」
給料が上がる予定が下がって遅配…しかしフリーの道が開けた
全女が活動停止する前に、安藤は伝説の団体・WJになかば引き抜きのような形で移籍している。しかし、ご存じの通りWJは早々に空中分解し、フリーリングアナウンサーの道を歩むようになる。
「最終的には自分で(WJ移籍を)決断したので……。実はWJからリングアナを貸してくれという話があって、当時全女と新日本が一緒にやっていた試合もあったので、顔役の今井さんは派遣できないと。それで私が行くことになったんですが、当時WJの専務だった永島(勝司)さんから『お前、全女でいくらもらってるんだ』と。『15万です』と答えたら『25万やるから来い』と。そりゃあ、行きますよね(笑)。でも、給料はいきなり遅配です(笑)。
そのとき助けてくれたのが保永(昇男/レフェリーとしてWJに参加)さんで、私が給料をもらっていないことを知ったらすぐに事務所で経理に伝えてくれて。そうすると経理の人が慌てて持ってきたお金が10万円(笑)。給料が10万上がる予定が5万下がってしかも遅配ですよ。その後は日当しか出なくて……そんなこんなで1年弱でやめることになったんですが、どこからか私がWJを辞めたことを聞きつけたインディレスラーたちが興行に呼んでくれるようになって、フリーリングアナウンサー人生が始まりました」
その後、安藤は旗揚げ間もないスターダムに合流し、今ではスターダムに欠かせない存在となった。ここ数年は全日本プロレスやアクトレスガールズなどでも活動してきたが、今はほぼスターダムでマイクを握っている。後編では、安藤の目から見たスターダムを語ってもらった。
(27日掲載の後編へ続く)