【RIZIN】サトシに「UFCへの気持ちはない」理由 亡き父から受け継いだ黒帯「日本のMMAがまだ強いと見せたい」
「人生が変わった日」。RIZINライト級王者ホベルト・サトシ・ソウザ(35=ブラジル)には絶対に忘れることのできない日がある。大みそかの『RIZIN DECADE』でヴガール・ケラモフ(32=アゼルバイジャン)との4度目の防衛戦を間近に控えた絶対王者が亡き父への思い、“カナリア色の大和魂”の異名を形作った意外なルーツを独白した。
祖父の兄弟は沖縄戦で亡くなった
「人生が変わった日」。RIZINライト級王者ホベルト・サトシ・ソウザ(35=ブラジル)には絶対に忘れることのできない日がある。大みそかの『RIZIN DECADE』でヴガール・ケラモフ(32=アゼルバイジャン)との4度目の防衛戦を間近に控えた絶対王者が亡き父への思い、“カナリア色の大和魂”の異名を形作った意外なルーツを独白した。(取材・文=浜村祐仁)
ホベルト・サトシ・ソウザ。日本のファンに愛されるRIZIN王者のミドルネームである“サトシ”はブラジル人の父親から授けられた大切な名前だ。
「お父さんは本当に日本が大好きだったんだよね。僕のお母さんは日本人なんだけど、映画とか食べ物とか日本のことは全部お父さんから教わった。私のお兄ちゃんの名前はヨシオ、弟がタケシ、お姉ちゃんがユカリ。意味は特にないんだけど、お父さんがとにかく日本の言葉が好きだった」
祖父母の故郷はもともと沖縄県だが、第二次世界大戦の末期に勃発した沖縄戦により故郷を追われブラジルに移民した。県民の4人に1人が亡くなったといわれる悲劇的な地上戦は、子孫であるサトシの心にも深く刻まれている。
「実はおじいちゃんの弟と妹が沖縄戦で亡くなっているんだ。それで私の祖父母は船で長い時間をかけてブラジルに行った。おばあちゃんのお腹の中にはまだ僕のお母さんがいた」
出身はブラジル南東部のサンパウロ州。友人のほとんどはサッカーに熱中していたが、サトシが最初に興味を持ったのは柔道だった。
「4、5歳から柔道を始めたんだ。学校が終わったらみんなサッカーをしてたけど私はジムで練習してた。最初はただ趣味みたいにやってた。でも柔術もやるようになって大会でメダルを取ると、みんなすごく喜んでくれた。それが嬉しくて、もっと頑張ろうって思って練習をしたんだ」
父親はボンサイ柔術の創始者でもある。サトシは柔術を通して父から大切なことを学んでいった。
「家族とか仲間はもちろん大事。でも試合になったら自分1人だけ。周りには誰もいない、誰も助けてはくれない。だから自分自身が強くならないといけないと教わった。こういう大きいインタビューの仕事もそうでしょ。最後は自分の力だけ。16歳くらいからは、先生の子供だからプレッシャーも感じるようになった。そのタイミングぐらいからかな。これは趣味じゃない、自分の将来の仕事だと感じ始めた」
柔術の国際大会でも徐々に頭角を現し始めると、先に来日していた兄弟に続きサトシも日本に渡ることを決意した。まだ18歳だった。
最期に父から渡された黒帯「この経験で私は強くなった」
「日本に来たときはまだ紫帯だった。そんなに深くは考えずに、大会に出て名前を作りたいと思っていた」少し目を細めながら当時を回想する。しかし待っていたのは苦しい生活だった。
「3年くらいは会社員として、朝の8時から夜の7時か8時くらいまで工場で部品を作る仕事をしていた。帰っても練習ができなくて、もう格闘家としての未来はないなと思った。私は強くないなと思った」
そんなサトシの支えになったのが兄ともう一人、大みそかに共に参戦する元RIZINフェザー級王者のクレベル・コイケだった。
「(クレベル)に初めて会ったのは日本のジム。当時は普通のジムの生徒同士という関係だった。でも一緒に大会に出るようになって少しづつ仲良くなった。その後少し考えて仕事を辞めた。それでお金がすぐ無くなって、三人で一緒に住んで、格闘家としての人生をみんなで頑張り始めたんだ」
2010年には、東京で行われた「DEEP X06」ブラジリアン柔術のスーパートーナメントで優勝。茶帯のサトシが黒帯所持者3人を倒す快挙だった。日本での生活も軌道に乗り始めた。そんな矢先、ブラジルから悲しい知らせが届く。師でもある最愛の父親が末期のがんに侵されていた。
「4月1日の朝ぐらいかな。お父さんが危ないと連絡があって、兄弟で病院に駆けつけた。(父は)もう元気がなかった。お父さんはベッドの横のバッグから黒帯を取り出して僕に言った。『ごめんね。お兄ちゃんたちに黒帯をあげるときはパーティをしたのに。あなたにはできない。でもあなたに黒帯をあげたい。(ついに)黒帯になったね』って。その場で帯を締めてくれた。それが昼の3時くらい。その後、夜の8時ごろにお父さんは亡くなったんだ」
「とても悲しかった。子どものときから黒帯になるのは幸せなタイミングだと思っていた。でもこの経験で私は強くなった。考えることも変わった。人生が変わったんだ」
「UFC」への待望論も、サトシのRIZINへの思いとは
数多くの困難を乗り越え、21年にはRIZINのライト級王座を獲得。以降3度の防衛に成功し、ファンからは朝倉海が挑戦した「UFC」への待望論が聞こえるほどの絶対王者として君臨している。
「最初はMMAへの気持ちはそんなに無かった。ライト級を選んだのもお兄ちゃんが77キロ、クレベルが66キロで人がいなかったから。3、4試合だけやるイメージだった。アメリカへの気持ちは今もそんなにないよ。できるなら日本のRIZINで世界のトップ選手と戦いたい。世界の人はみんな『PRIDE』のころは凄かったという。だから私が(現役で)いる限りは、世界に日本のMMAがまだ強いというのを見せたい。このベルトを守りたいんだ」
「試合前は色々考えるけど名前が呼ばれて音楽が流れると全部忘れるんだ。(リングに)向かって歩くとあとは勝つことに集中するだけだ」
30分近くに及んだインタビュー中、サトシは右膝に乗せたベルトを片時も離さなかった。天から見守る父がブラジルから愛した国のベルトは絶対に渡さないと、間近に迫った防衛戦に向けて覚悟を決めていた。