元フジ渡邊渚さん、PTSDから回復後の10月に遺書を記した理由「レポート用紙8枚分」
キュートな笑顔が画面から消えたのは昨年7月だった。元フジテレビアナウンサーの渡邊渚(わたなべ・なぎさ)さん。長期療養を余儀なくされ、入院後、体の自由がきかなくなったこと、精神的に追い込まれていることなどをSNSでつづった。そして、体調が回復してきた今年8月31日に退職。1か月が過ぎ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていたことを初告白した。現在はフリーで活動。今だから言える抱えていた葛藤、この先のビジョンをENCOUNTに明かした。「闘病、退職の経緯」を語ったインタビュー前編に続き、後編では「体調回復の要因、これからの自分」などを語っている。
インタビュー後編「体調回復の要因、これからの自分」
キュートな笑顔が画面から消えたのは昨年7月だった。元フジテレビアナウンサーの渡邊渚(わたなべ・なぎさ)さん。長期療養を余儀なくされ、入院後、体の自由がきかなくなったこと、精神的に追い込まれていることなどをSNSでつづった。そして、体調が回復してきた今年8月31日に退職。1か月が過ぎ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていたことを初告白した。現在はフリーで活動。今だから言える抱えていた葛藤、この先のビジョンをENCOUNTに明かした。「闘病、退職の経緯」を語ったインタビュー前編に続き、後編では「体調回復の要因、これからの自分」などを語っている。(取材・文=一木悠造/構成=柳田通斉)
渡邊さんは、9月から新たな道を歩み始めた。事務所には所属せず、我々のオフィスにも1人で訪れた。
「大変です(笑)。税金とか諸々、やることがいっぱいあって。助言をいただくこともありますが、基本は1人で全部やっています。仕事も(インスタグラム内に設けた)フォームに届いた依頼の全てに目を通し、1人で決めています」
8月23日、同月末をもっての退職を発表。すぐに芸能事務所などから所属契約のオファーが届いたという。
「ありがたいことにオファーはたくさんありましたが、全部お断りしました。会社辞めた時に『フリーアナウンサー』の肩書で生きてこうとは思わなかったからです。自分は『アナウンサーだ』って言えるほどの経験はありませんし、どこかの事務所に所属すると、肩書がフリーアナウンサーになり、テレビに出ることを求められます。今の私はそれを望んでいないので、『1回、自分で全部やってみたい』と思いました」
療養中は、手足が自由に動かなくなり、食事も満足にできない状態などをSNSで告白。退院後もパニック発作が起きていたというが、次第に体調は回復した。今年8月には、パリ五輪のバレーボールを現地で観戦できるようになった。
「PTSDを患う2年前にはメニエール病にもかかっていました。でも、PTSDを治していく過程でメにエール病もすっかり治りました。規則正しく、ストレスがない生活を徹底したことで夏頃には、不思議なくらいにピタッと症状が止まったんです。もう目も回らないし、耳も正常になりました」
昨年6月、渡邊さんは「会社にも関係するトラブルの影響」でPTSDを発症した。回復傾向を感じたのは今春。治療法の「持続エクスポージャー」が効果を示したという。
「4月から徐々に元気になってきました。毎週、臨床心理士さんにところに通い、『持続エクスポージャー』を受けたことがきっかけでした。まず、自分のトラウマを言葉にし、音声にする。それによって記憶が整理されてきました。『自分は何が怖いものなのか』を見極め、それを少しずつチャレンジし、何度もトラウマに至った状況に向き合う。私はトラウマになった時に食べた物があるスーパーの売り場に行けなかったのですが、そこに行くトレーニングもしました」
「トラウマから逃げない」。渡邊さんにはそれがフィットしたという。
「かさぶたになったトラウマにばんそうこうを貼って『封印した』って思っていたのに、それをはがして消毒してきれいにしてく感じでした。正直、『痛いよ。しんどい』という感じでしたが、効果はありました。少しずつ体力が戻り、友達と外出できるようになってからは、生活に楽しみを見つけられるようになりました」
そして、PTSD告白後に新たな扉が開けた。
「実は大学の特別講師として、心的外傷後ストレス障害についての講義をすることにもなりました。臨床心理士などを目指す学生さんたちを前にです。私が体験したことを基に『患者さんがどう寄り添ってほしいか』『どういう言葉がうれしかったか』『身近なサポートで一番必要なこと』などを自分の言葉で伝えたいです」
会社に止められ、退職まではPTSDであることは告白できなかった。だが、今は自分が受けた治療法も語れる。渡邊さんは「それがうれしい」と言った。精神疾患啓発活動の一環である「シルバーリボン」の活動にも関心を示し、関係者との協議を始めている。
「PTSDであることを公開した理由の1つが、PTSDの情報が少ないことです。ネットで調べても、闘病記はなかなか見当たりません。だから、『治った人はいないのか』と不安になりました。治療法はいろいろあるけど、どれを選べばいいかが分からない状況なので、『私のケースはこうだった』と伝えたいです。一例ではありますが、私自身が気軽にアクセスできる存在となり、PTSD、パニック障害などの精神疾患に関わる啓蒙活動をしていきたいです」
渡邊さんは幼少期から日記を書き続けている。フリー転身後には、サブスクリプションではエッセーをしたためている。
「たくさんの方々に読んでもらえているようでうれしいです。私は日本語が好きで、日本語に向き合えるアナウンサーを志しました。文学も好きですし、今はとにかく自分の言葉を残していきたいと思っています」
体調は回復。だが、不安が消えたわけではない。精神疾患が再発しないように心がけていることもあるという。
「不安でグニャグニャした感じになる時はありますが、まずはその要素を紙に書いたりしています。心理士さんに教えていただいた方法ですが、不安なことを一つひとつ風船に浮かべてラベリングするんです。例えば、『嫌なことを言ってきた人』という感じです。それらを頭の中で打ち上げていくと、風船ごと不安を空に飛ばしていけます。私は2か月間、それを続け、何となく消し方を分かってきました」
闘病中は「死」もよぎったが、今は生きる喜びを感じられている。一方で、今年10月には、遺書をしたためていた。
実感した5つの後悔「正直に生きれば良かった」
「私は新潟で幼少期を過ごし、7歳だった2004年10月23日に発生した新潟県中越地震を経験しています。『今、生きていることが当たり前じゃない』と認識し、毎年、この時期に遺書を書くようになりました。レポート用紙8枚分にはなりますね。『お金はこうしてください』『ID、パスワードはこれ』『お葬式はこうしてほしい』『骨はどうしてほしい』ということも書きますが、『家族、友達たちに言葉を残す』ために書いています。遺書をしたためると、次の1年までに自分は何をしたいのかがクリアになります」
入院中、高校時代に読んだ本の言葉をかみしめ、今もそれを大事にいているという。
「本には『正直に生きれば良かった』『働き過ぎなければ良かった』『自分の気持ちを伝えれば良かった』『友達と連絡を取り続ければ良かった』『幸せを諦めなければ良かった』と、5つの後悔が書いてあります。私は入院して死に直面し、『本当にこの5つを後悔するんだな』と思いました。なので、今もこの5つの後悔を絶対しないように生きると決めました。病と向き合ったことで昔の自分に戻ることができました」
自分を取り戻した27歳。今はエッセー連載、モデル、イベント出演などのオファーも届いている。それらを取捨選択し、生きていることに感謝。そして、「自分の言葉」を残していく。
□渡邊渚(わたなべ・なぎさ) 1997年4月13日、新潟県生まれ。名古屋市、横浜市でも生活し、慶応女子高をへて、慶応大経済学部に入学。在学中は芸能事務所の生島企画室に所属し、卒業後、2020年にフジテレビにアナウンサーとして入社。『めざましテレビ』などさまざまな番組を担当。趣味は日記をつけること。特技はバレーボール。165センチ。