松本人志が文春裁判で“常識”を超えて「失ったもの」…記録を閲覧してきた弁護士が指摘
お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(61)は8日、自身の性加害疑惑を報じた週刊文春の記事をめぐり、発行元の文芸春秋などに5億5000万円の損害賠償など求めた裁判での訴えを取り下げた。さまざまな反応がある中、元テレビ朝日法務部長の西脇亨輔弁護士は、同裁判記録を閲覧し続けてきたことを踏まえ「松本氏が失ったものは大きい」と指摘した。
元テレビ朝日法務部長・西脇亨輔弁護士
お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(61)は8日、自身の性加害疑惑を報じた週刊文春の記事をめぐり、発行元の文芸春秋などに5億5000万円の損害賠償など求めた裁判での訴えを取り下げた。さまざまな反応がある中、元テレビ朝日法務部長の西脇亨輔弁護士は、同裁判記録を閲覧し続けてきたことを踏まえ「松本氏が失ったものは大きい」と指摘した。
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私は「裁判には、誰しも生身の姿が現れる」と感じている。
5億5000万円の賠償を求め、日本中の注目を集めた松本人志氏と文藝春秋社などとの裁判は、松本氏側の訴え取り下げで終わった。では、この裁判後、松本氏には何が残ったのか。私は「女性を激しく攻撃する松本氏の姿」が、皆の目に焼きついただけだったのではないかと思う。しかも、そのやり方は常識を超えていた。
そもそも賠償の請求額の大きさが異例だった。「5億5000万円」という金額の根拠について、松本氏の訴状には「筆舌に尽くし難い精神的損害を受けたのであるから」とだけ書かれ、文春報道で仕事ができなくなったなどの損害ではなく、全額が純粋な「慰謝料」だと主張していた。しかし、我が国では名誉毀損の慰謝料は、その良し悪しは別として、数十万円から多くて数百万円程度というのが判例の現実だ。現実離れした請求額には、松本氏がこの裁判にぶつける「激しい感情」が感じられた。
裁判が始まると、松本氏側は「告発女性の身元を明かせ」と繰り返し要求した。3月に提出された主張書面では、女性の「氏名」「住所」「生年月日」、さらには「携帯電話番号」「LINEアカウント」「容姿が分かる写真」まで明かすように要求。文春側がこれに反発して裁判は空転した。
すると、松本氏側は驚くべき証拠を提出した。「甲第6号証」として提出されたその証拠は「暴露系配信者による女性の実名が入ったネット投稿」だった。松本氏側は「暴露系配信者がSNS上で『A子さん』『B子さん』を特定している」と主張。告発女性とされる名前が入った「ネット投稿」を裁判の証拠として出してきたのだ。
「暴露系配信者」の「ネット投稿」を裁判官が信用してくれる可能性は低い。それでも、松本氏側がこれをわざわざ「裁判の証拠」として提出した狙いは何だったのか。
民事裁判では「裁判公開の原則」から、提出された証拠や書類は一般に公開され、裁判所に行けば誰でも見られるのが通常だ。だから、女性の実名が書かれた「ネット投稿」を裁判所に提出すれば、これが一般に「さらされる」ことになって女性側へのプレッシャーとなり得た。結局この「証拠」は裁判所の判断で公開停止となったが、この松本氏側の戦略が結果として「女性への心理的な圧力」となった可能性はある。
その後、さらなる松本氏側の行動として報じられたのが、告発女性への「出廷妨害工作」だった。7月11日発売の週刊文春は、松本氏側の弁護士が探偵を使って性被害を訴えている女性らを尾行。さらに女性側の弁護士に対して「女性を出廷させないように」と要求し、拒否されると「女性との不倫の記事を止めることができる」と脅迫まがいの発言をしたなどと報じられた。松本氏側の弁護士も「工作」は否定しつつも、探偵への依頼や女性側弁護士との接触は認め、世論の批判を浴びた。
そして、この「出廷妨害工作」報道の翌月、裁判は突然ストップ。8月14日に予定されていた裁判期日が前日に取り消され、その後の予定が白紙という異例の展開となった。振り返ると、ここから松本氏側は裁判を終わらせる方向に舵を切ったのだろう。
こうして訪れたのが今回の「訴え取り下げ」だった。松本氏は「取り下げ」にあたり女性への行為について「強制性の有無を直接に示す物的証拠はないこと等を含めて確認いたしました」とコメントしたが、これが書かれていたのは文春側との「合意文書」ではなく、松本氏側の「一方的な発表」の中だった。
残った「暗い一面」の記憶
1月22日の提訴から約9か月半に及んだこの裁判は、結局、松本氏に何を残したのだろう。振り返って思い浮かぶのは「激しく攻撃的」な松本氏の姿だった。女性の住所や電話番号まで明かすように迫り、裁判所の外でも女性側に圧力をかける。こうしたやり方は通常の裁判では見ない。そして、その活動が裁判で実を結ばなかった今、私に残ったのはこうした感想だけだった。
「松本人志さんは、こういう人だったのか」
実はこの裁判は文春側にとっても容易なものではなかったと思う。私もテレビ局の法務部で働いていて経験したことがあるが、取材源を匿名のままにして裁判を闘うことには困難も伴う。だから、松本氏が文春報道に異議を唱えるなら「あの夜に一体何があったのか」を正々堂々と細かく説明し、裁判で証言し、裁判官に信用してもらうという「正攻法」の闘いをすべきだった。それで勝訴すれば信頼は回復したかもしれない。
しかし、松本氏側は「工作活動」のようなことをした末に、自分から闘いの場を去ってしまった。その結果、多くの人の脳裏には、この裁判が照らし出した松本氏の「暗い一面」の記憶だけが残ったのではないだろうか。
この裁判で松本氏は、何かを得るどころか、大切なものを失ってしまったように感じる。この裁判を通じて焼きついた松本氏の印象がこの先消えることがあるのか私には分からない。しかし、もし松本氏が公の場に戻ることがあるのだとしたら、その前に女性への性加害疑惑も含めて「一体、どうしてこうなってしまったのか」を説明する必要があるのではないか。その場がない限り、その先もないように思う。
□西脇亨輔(にしわき・きょうすけ)1970年10月5日、千葉・八千代市生まれ。東京大法学部在学中の92年に司法試験合格。司法修習を終えた後、95年4月にアナウンサーとしてテレビ朝日に入社。『ニュースステーション』『やじうま』『ワイドスクランブル』などの番組を担当した後、2007年に法務部へ異動。社内問題解決に加え社外の刑事事件も担当し、強制わいせつ罪、覚せい剤取締法違反などの事件で被告を無罪に導いた。23年3月、国際政治学者の三浦瑠麗氏を提訴した名誉毀損裁判で勝訴確定。同6月、『孤闘 三浦瑠麗裁判1345日』(幻冬舎刊)を上梓。同7月、法務部長に昇進するも「木原事件」の取材を進めることも踏まえ、同11月にテレビ朝日を自主退職。同月、西脇亨輔法律事務所を設立。今年4月末には、YouTube『西脇亨輔チャンネル』を開設した。