32歳モデルがパリコレで外した義眼 “顔を髪で隠さない”挑戦…感動の会場、届けた「前を向く」勇気

26歳で病気によって左目を完全に失明、右目は「いずれは見えなくなる」と宣告されながらも、「義眼のモデル」として活動する32歳の女性が、世界のランウェイを歩き、夢をかなえた。9月にパリコレ出演を果たした富田安紀子だ。小学2年で視力に異常が出始め、壮絶ないじめを経験。コンプレックスに悩まされ続けた「素の自分の顔」だが、今回初めて、表舞台で義眼を外した。ありのままの自分をさらけ出し、流した涙。「心の瞳で見えるものがありました」。また新しい人生のスタートを切った。

パリコレの大舞台で輝きを見せたモデル・富田安紀子【写真:本人提供】
パリコレの大舞台で輝きを見せたモデル・富田安紀子【写真:本人提供】

富田安紀子 26歳で左目を完全失明、右目も「いずれは見えなくなる」と宣告

 26歳で病気によって左目を完全に失明、右目は「いずれは見えなくなる」と宣告されながらも、「義眼のモデル」として活動する32歳の女性が、世界のランウェイを歩き、夢をかなえた。9月にパリコレ出演を果たした富田安紀子だ。小学2年で視力に異常が出始め、壮絶ないじめを経験。コンプレックスに悩まされ続けた「素の自分の顔」だが、今回初めて、表舞台で義眼を外した。ありのままの自分をさらけ出し、流した涙。「心の瞳で見えるものがありました」。また新しい人生のスタートを切った。(取材・文=吉原知也)

「私、気持ち悪く見えてないかな?」「変だと思われてないかな?」

 フランス・パリ、9月28日。パリコレ『ユニバーサル・ランウェイ』の楽屋。義眼を外す決心は付いたが、本番直前になって、ワクワク感の興奮が大きな不安に変化していた。

 目の病気は「ぶどう膜炎」と診断され、白内障も併発。失明はそれでも原因不明だ。両目は別方向を向き、もう視力を失った左目は少しくぼみ、青い色になっている。小6の時にいじめに遭い、思春期はずっと左目を前髪で隠してきた。自分の素顔に自信が持てなかった。

 目が見えなくなる前に、夢をかなえたい。障がい者で夢をあきらめている人に、挑戦する勇気を持ってほしいと、挑戦したパリコレ。オートクチュールの衣装を仕立て、ヘアスタイリストの波多晋氏、パリ在住メイクアップアーティストの宮本盛満氏、海原悠氏が参加し、特別チームで大舞台に臨んだ。

 世界で活躍する彼らの言葉に救われた。「障がいはコンプレックスじゃなくて、個性なんだよ」「誰かのためではなく、自分が幸せになるために、自分で決めるんだよ」――。義眼を外し、解放感があふれてきた。「義眼を外して、『きれいだね』と言ってもらえるのは、家族以外では初めてでした。どんどん涙が出てきて。『こうして素の私を、本当の目を、世界の人たちに見てもらえる』、そう思うと心が震えました」。涙で目の周りがぬれては、宮本氏が冷静に拭いてアイメイクを塗り直す。舞台袖から輝くランウェイへと一歩を踏み出した。

 学校を卒業後は介護士として働いていたが、いつも味方でいてくれる母・啓子さんに背中を押され、6年前から芸能活動を始め、ミスコン出場や東京パラリンピック開会式にも和太鼓パフォーマーとして参加経験を持つ。そして、今回、モデルとして最大の夢を実現させた。

 自分の持ち味であり、ライフワークを世界に示した。幼少期から取り組んでいる和太鼓師範でもあり、「絶対にやる」と準備してきた和太鼓演奏をパリコレのパフォーマンスに取り入れた。「その場に目が不自由な方がいたとしても、そこでランウェイをやっていることを、あふれるエネルギーを音で伝えられればと思いました。ファッションと和太鼓の組み合わせ。音の表現が多様性にもつながると考えたんです」。義眼を外した際のヘアスタイルは、人生初挑戦の顔を髪で隠すことのないオールバック。独創性にあふれたSDGs(持続可能な開発目標)に関係する2つの衣装で、堂々とした歩きを見せた。

 会場全体から拍手が送られた。現場で共演したスウェーデンの女性モデルは「私はかつて病気で右目が見えない時期があったので感動しました」といい、涙を流した。パリに同行し共にランウェイを歩いた、今回の企画プロデューサーの星咲英玲奈は「これまでさまざまな困難を、持ち前の明るさと前向きさで乗り越えて常に挑戦してきた彼女だからこそ、こうして多くの方に勇気と希望の光を与えられたのだと思います」と、大成功のパリコレ挑戦を笑顔で振り返った。

「義眼のモデル」富田安紀子が新たなスタートを切った【写真:本人提供】
「義眼のモデル」富田安紀子が新たなスタートを切った【写真:本人提供】

日本で祈っていた母の啓子さんは「無事に歩けた」と感無量

 あっという間の夢のような時間。「本当に楽し過ぎて、一瞬で終わったという印象です。『ありのままの自分をもっと好きになれる』。そう確信しましたが、それには時間がかかる。そのことも実感しています」。

 そして、「義眼とひとことで言うのは簡単ですが、金銭面の事情で購入できなかったり、その人それぞれの目の形に合わせるのですが、痛くて付けられなかったり、実は義眼をしたくても入れられない人が少なくないという実情があります。私自身、20歳の頃にお医者さんから義眼を勧められて、それでも怖くてずっと拒否してきました。完全失目の告知の際に、母がお願いしますと言ってくれて、それで義眼を付けることを決心できました。そんな私に、今度は義眼を外すという新しい目標ができました。付けたくても悩んでいる方や、義眼がなくても前に進もうとしている方に、私なりにメッセージを届けていければと思っています」。真摯(しんし)な思いを明かす。

 パリコレデビューの日、日本にいた家族たちは時差で夜中なのに、眠らずに成功を祈ってくれた。母の啓子さんは「無事に歩けた」と喜んでくれた。家族の反応を聞いて実感が湧いたという。帰国後は大反響で、通知や連絡が止まらない。自身の半生について和太鼓の演奏とともに届ける講演会の依頼が企業から届いている。

 貴重な経験をへて見つけた、新たな自己表現の形。常に感謝の思いを持ちながら「今を楽しく生きる」という人生のモットーを貫き通す覚悟だ。「義眼を外すこと。それは時間がかかっても、いつか実現させたいです。それに、世の中の多くの方に、義眼を巡る課題や私たちのことを知っていただければ。私自身、この目の病気も、過去のいじめも、義眼のモデルとして活動していたからこそパリコレに出られたことも、すべて神様のプレゼントだと思っています。どんなにつらいことがあっても、頑張った先にはすばらしい世界が待っています。そんな“希望の光”をこれからも届けていきたいです。『前を向いて生きていこうね』。私なりに伝え続けていきたいです」。真っすぐ前を見据えた。

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