79歳・水前寺清子、腰の不調と微熱に耐えて記念ステージ「気持ちが一番大事」「まだまだ頑張るぞ」

歌手の水前寺清子が15日、都内で「バースデー&デビュー60周年記念新曲発表」を開催した。今月9日に79歳の誕生日を迎えた水前寺は、1964年10月15日に『涙を抱いた渡り鳥』でデビューした。この日がまさに60年の節目の日だった。

いすに座りながら歌う水前寺清子【写真:ENCOUNT編集部】
いすに座りながら歌う水前寺清子【写真:ENCOUNT編集部】

都内で「バースデー&デビュー60周年記念新曲発表」

 歌手の水前寺清子が15日、都内で「バースデー&デビュー60周年記念新曲発表」を開催した。今月9日に79歳の誕生日を迎えた水前寺は、1964年10月15日に『涙を抱いた渡り鳥』でデビューした。この日がまさに60年の節目の日だった。(取材・文=笹森文彦)

 64年10月10日にアジア初の東京五輪が開幕。その前日に19歳になった水前寺は、同15日に『涙を抱いた渡り鳥』でデビューした。東京五輪はカラーテレビ普及のキラーコンテンツだった。それと歩調を合わせるように、着流しスタイルの水前寺は一躍、国民的な人気者となった。それから60年。水前寺は「元気なチータらしく、これからもチータと呼んでもらえるように頑張りたい」と語った。

 幼少期の夢は、時代劇俳優の大川橋蔵氏のように着流しで女剣劇をやることだった。『涙を抱いた渡り鳥』を歌うにあたり、恩師の作詞家・星野哲郎氏に「今日から男になれ」と着流しスタイルを命じられたことが、うれしかったという。

「チータ」の愛唱は、星野氏がつけた。水前寺の本名は「林田民子(たみこ)」。小柄だったことで「小さな民子」から「チータ」になった。『いっぽんどっこの唄』『三百六十五歩のマーチ』などが次々と大ヒットした。俳優としても活躍した。70年から主演したTBS系連続ドラマ『ありがとう』は、民放ドラマ史上最高の平均視聴率56・3%を記録した。

 一方で、着流し姿の元気で明るいイメージは、負の部分もあった。着流しは腰回りをさらしでがっちり固める。その状態でステージを動き回れば、足腰に負担がかかった。デビュー50周年を控えた68歳の時だった。足にしびれが出て、何かにつかまらなければ3メートルも歩けなくなった。整形外科で「脊椎管狭窄(きょうさく)症」と診断された。脊柱管の骨が変形し、神経を圧迫していた。医師から「車いす生活になる可能性がある」と告げられた。

「怖いというより、ファンの皆さまが持ってくださっている水前寺清子のイメージを壊したくないと思いました。迷うことなく手術を受けることにしました」

 その即断が奏功し、60周年の現在もファンに元気を届けている。この日、デビュー曲を歌いながら、水前寺が会場に登場すると、長年のファン約100人から「チータ!」の声援が飛んだ。そして、三山ひろし、純烈、鳥羽一郎、瀬川瑛子、美川憲一、北島三郎ら同じレコード会社の歌仲間のビデオメッセージが披露された。

 大江裕はケーキとともに登場し、水前寺の誕生日と記念日を祝した。祝われた水前寺は「私みたいな幸せな歌手はいません。星野先生と(ファンの)みなさんのおかげです」と何度も繰り返した。

 この日発売のデビュー60周年記念アルバム『援歌(えんか)の神髄~男のいのち』の収録曲で、新曲『男のいのち』は星野氏の遺作。『ありがとうの歌』などを手がけた叶弦大氏が作曲した。文字通りの記念作だ。

 ただ、水前寺は今も腰の調子が良くない。この日は微熱もあり、いすに座ったままで新曲やヒット曲を歌唱した。最初はか細い声だったが、ファンの声援を後押しに、徐々に声も出て、『涙を抱いた渡り鳥』では、大江とデュエット。感極まって涙し、「年を取っても気持ちが一番大事だと思う。まだまだ水前寺清子は頑張るぞ」と誓った。

次のページへ (2/2) 【写真】デュエットした大江裕と抱き合う水前寺清子
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