卓球・早田発言で注目の特攻隊施設、目立つ若者の姿 現地で聞いたリアルな声「ずっと鳥肌立ちっぱなし」「絶対しんどい」
太平洋戦争末期の沖縄戦で戦死した1036人の特攻隊員の遺影や遺品を展示している知覧特攻平和会館(鹿児島・南九州市)が注目を集めている。8月にパリ五輪卓球女子代表の早田ひなが帰国会見で「鹿児島の特攻資料館に行きたい」と発言してトレンド入り。多くの若者にも存在を知られるようになった。ENCOUNTでは、実際に現地で観覧を終えたばかりの10代、20代の若者を取材。なぜ訪れ、展示を見て何か感じたのか詳しく聞いた。
知覧特攻平和会館で聞いた 令和の若い世代は何を思うのか
太平洋戦争末期の沖縄戦で戦死した1036人の特攻隊員の遺影や遺品を展示している知覧特攻平和会館(鹿児島・南九州市)が注目を集めている。8月にパリ五輪卓球女子代表の早田ひなが帰国会見で「鹿児島の特攻資料館に行きたい」と発言してトレンド入り。多くの若者にも存在を知られるようになった。ENCOUNTでは、実際に現地で観覧を終えたばかりの10代、20代の若者を取材。なぜ訪れ、展示を見て何か感じたのか詳しく聞いた。(取材・文=水沼一夫)
神奈川から単身訪れた大学生の高嶋悠作さんは、「ずっと鳥肌立ちっぱなしというか、衝撃的、ショッキングなこともあったんですけど、この人たちのおかげで今自分たちが幸せに暮らしているなっていう思いを感じました。すごく感慨深かったです」と実感を込めた。
陸軍の沖縄特攻作戦に参加した特攻隊員の平均年齢は21.6歳。22歳の高嶋さんは「ちょうど特攻隊の人たちと一緒ぐらい年齢」とひとごととは思えない心持ちで展示を回った。
館内には沖縄戦で戦死した特攻隊員の遺影がずらりと並び、遺書や手紙には、死を目前にした若者たちの生々しい感情がつづられていた。
「絶対に泣いてはいけません 私は名誉ある特攻隊員です」
「お母さん不幸者でした お許し下さい 元気で征きます」
そのすべてに目を通せば、1日かけても回り切らない。喜び勇んで戦地に赴いた言葉の裏に家族愛があり、訪れる多くの人々の心を打っている。
時代が違っていても、同じ若者として感じることがあった。
「自分がもし(特攻隊に)選ばれたらどうしようとか見ていて考えたんですけど、想像つかないし、今の自分ならなんとしてでも逃げるだろうなって思いました。本当にこれからなので……。悔しかっただろうなと思います」。偽らざる気持ちが口を突いた。
昭和の戦争とはかけ離れた世代だ。わざわざ神奈川から、この地を訪れたのは、父の勧めだった。
「元々歴史が好きで、特に太平洋戦争とか戦争のことに興味がありました。お父さんも歴史が好きで、ここに来たら人生観変わるよみたいなことを言われていたので、行ってみようと。特攻隊のことも詳しくは知らなかったので、勉強しに来ました」
事前に見聞きしたことはあっても、実際に足を運ぶ意味は大きかった。起こった現実の悲惨さは想像をはるかに超えていた。
「印象に残ったのはやっぱり手紙です。教科書とかで見たことあったんですけど、実物は見たことがなかった。その文章の内容であったりというのが、すごく衝撃でした。奥さんだったり、家族、きょうだいだったりへの感謝、絆っていうものを強く感じました」
自身の生涯がまもなく幕を閉じるというのに、遠く離れた家族の体を案じ、親孝行できなかったことをわびる。特攻隊員の遺書は、現代では薄れつつある家族のつながりも教えてくれているようだった。
「家族をもっと大切にしなくちゃなって、当たり前のことに気づかされました」
2000年生まれ24歳の早田は同世代。会見で言った「生きていること、そして自分が卓球を当たり前にできていることが当たり前じゃないというのを感じたい」との言葉には、共感を覚えた。
「ああいう影響力を持っている人が、こういうところがあるって言うだけで、この場所も知ってもらえると思う。公の舞台でそういうことを言えるのが素晴らしいなと思いました」。知覧を旅行先に選んではいたが、「早田選手が言ってくれたので、もっと行きたくなった」と背中を押された。
悲劇を繰り返さないためにも、日本人として未来に伝える義務があると感じた。
「今は日本は平和だから幸せに暮らせるのが当たり前だと思っていると思うんですけど、本当つい最近までこんな悲惨なことがあったんだよっていうのは将来、子どもができたら語り継いでいきたいと思っています」と話した。
新潟の女子大生姉妹 「中学時代にYouTubeで見て、気になって」
一方、新潟から来た大学生の姉妹は宮崎にある母の実家に帰省した際に、知覧まで足を延ばした。
来館は18歳の妹の希望だった。
「元々中学生とかの時に、特攻隊が特攻している映像とかYouTubeで見て、気になって」
前日には、広島平和記念資料館(原爆資料館)も見学した。
21歳の姉は「(知覧に興味は)ちょっとはあったんですけど、広島の資料館に行った時に、戦争の内容を見るのがやっぱきつくて、ここ来るのはちょっと不安もあったんですけど、手紙がメインの展示だったから、なんとか見ることができて。元々特攻隊の最後に残した手紙をまとめた本を中学の時に読んで、ここにも来たいなと思っていました」と語った。
美しい字で書かれた遺書や手紙を読むと、胸がいっぱいになった。妹は「内容がすごく大人ぽくて、とても同じ年とは思えない」と驚きを隠せない様子。
姉も「婚約者に向けた手紙とか、婚約者のためにマフラーの半分を切って自分のものを残すとかが特に涙出そうになった。しんどいよなって思って。絶対しんどい」と思いをはせた。
特攻の悲劇は、隊員の命を奪うだけとは限らない。有名なのは、藤井一少佐のエピソードだ。妻が「私達がいたのではこの世の未練になり、思う存分の活躍が出来ないでしょうから、一足お先に逝って待っています」との遺書を残し、2人の女児を連れて入水。愛する家族に先立たれた藤井少佐は血書で特攻を嘆願し、妻と子どもの後を追った。
「いろいろ知れました。戦争のことが」と2人は口をそろえた。
鹿児島県内の特攻隊に関する施設は、南さつま市の「万世特攻平和祈念館」、鹿屋市の「鹿屋航空基地史料館」も知られている。
早田の発言は中国などから反発の声が上がったが、「その発言で外国から批判を浴びたのが嫌でした。(早田は)立派だなって思っています。批判している人は(施設の意味を)正しく理解していないです」と姉は擁護した。
祖父があわや特攻に…… 「もうちょっと戦争が続いていたら飛んでた」
また、東京都在住の23歳男性にも話を聞いた。
「ひと言で言葉にするのは失礼な気もするんですけど、学徒や少年兵の方も多いというのは知っていたんですけど、実際に特攻していった方たちの顔を見て、こんなにも幼い顔の人たちが飛んでいっていたんだなっていうので、かなり衝撃というか、知識で分かっていたけど、思っていた以上に心に何かくるものがありました」
戦死した特攻隊員の最年少は17歳。学徒出陣で学業が中断となった大学生も特攻隊として出撃していった。
平和会館を訪れたのは、鹿児島に駐在経験のある父の助言だった。
「鹿児島に旅行を計画していたら、父が『知覧に行ってきなさい』とアドバイスくれて。私のおじいちゃんが、もう亡くなっているんですけど、元々この特攻の舞台にいたらしいんですよね。当時15、6だったと思うんですけど、もうちょっと戦争が続いていたら飛んでたっていうふうに聞かされていて。そういうこともあって、今回鹿児島に行くなら知覧に行ってきなさいっていうふうに言われて、見に来ました」
被爆地広島も観光したことはあるが、また違う心持ちになった。
「ちょっと前に広島に行って原爆ドームを見たんですけど、その時、被害者がかなり一般の民衆の方だったというのもあって、心に来る、涙するものがあったんですけど、ここは涙するというよりも、この今の平和の日本を作る一端を担ってくれた方たちに対して、涙はあんまり出なくて、誇りに思うようなイメージのほうが強かったですね」
平和の尊さについて改めて考えさせられた。
「おじいちゃんは戦争の話は全くしませんでした。でも、こうやって後世に残してくれてる方々もいて、なんて言うんですかね、伝聞で伝えて後世に残していくっていうこともできると思いますし、1つ知識として、こういう背景があって、僕たちが今歩いてる土地の昔にはこういう人たちが住んでいた、こういう人たちのおかげも(平和の)1つ要因としてあるっていうのは残していきたいなっていうふうには思います」と訴えた。