早田ひなの発言で脚光、知覧特攻平和会館とは何か 興味を持った若者へ伝えたい館長のメッセージ
「鹿児島の特攻資料館に行きたい」。今、若者たちの間でにわかに注目を集めているのが知覧特攻平和会館(南九州市)だ。パリ五輪の帰国会見で卓球女子代表の早田ひなが「鹿児島の特攻資料館」への来館を希望。昭和の戦争とは無縁の24歳の発言は反響を呼び、施設を知らなかった人にも、その存在を周知させた。太平洋戦争末期の沖縄戦で、1036人の特攻隊員が戦死。彼らの残した遺書や手紙などの遺品は戦後79年が経過してもその悲惨さを物語っている。この機会に見学に興味を持った若者に送るメッセージは何か。川崎弘一郎館長と学芸員の羽場恵理子さんに聞いた。
知覧に建設の経緯は? 「特攻隊はエリート」は本当? 今聞きたい質問を館長にぶつけた
「鹿児島の特攻資料館に行きたい」。今、若者たちの間でにわかに注目を集めているのが知覧特攻平和会館(南九州市)だ。パリ五輪の帰国会見で卓球女子代表の早田ひなが「鹿児島の特攻資料館」への来館を希望。昭和の戦争とは無縁の24歳の発言は反響を呼び、施設を知らなかった人にも、その存在を周知させた。太平洋戦争末期の沖縄戦で、1036人の特攻隊員が戦死。彼らの残した遺書や手紙などの遺品は戦後79年が経過してもその悲惨さを物語っている。この機会に見学に興味を持った若者に送るメッセージは何か。川崎弘一郎館長と学芸員の羽場恵理子さんに聞いた。
九州新幹線の終着駅「鹿児島中央駅」からバスで1時間20分ほど。薩摩半島南端にある南九州市内に構えるのが知覧特攻平和会館だ。知覧には太平洋戦争中、沖縄に向けた特攻隊の基地があり、知覧飛行場からは全特攻戦死者1036人のうち439人が出撃している。
その壮絶なる死を悼み、知覧特攻平和会館が建てられる前から遺品の寄贈があった。
「南九州市の前身の知覧町で、昭和30年(1955年)から知覧特攻基地戦没者慰霊祭を開催しています。そこで慰霊祭に参列した知覧特攻基地の元特攻隊員やご遺族の方から、当時の知覧町に遺品や写真などが多く届くようになり、その展示施設として、昭和50年に前身の知覧遺品館が開設されました。その後も遺品や寄贈がどんどん増えていき、それに伴って、知覧特攻平和会館を昭和62年に開設しています」と川崎館長は説明した。
展示内容は、出撃した月日の順に並ぶ1036人の遺影や特攻隊の遺品である遺書や手紙、日記など。海底から引き揚げられた「零式艦上戦闘機」や一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」の展示や、語り部による特攻の講話、映像放映も行われている。建物の右裏手には、特攻隊員が出発前の2~3日を過ごした「三角兵舎」が復元されている。台風接近などによる突発的な休館を除けば、年中無休となっている。
若者の来館はどのくらいあるのだろうか。昨年度の全体の来館者数は33万7000人ほど。そのうち、あらかじめ予約をしたうえで修学旅行などで訪れる小中高生は4万1000人ほどだった。
「小中学生、高校生は平和学習という形で来館しています。昨年度は全体の来館者の12%ほどになりますね」(川崎館長)
その他、家族や友人と個人で訪れる10代、20代もいる。全体の入館者数はコロナ禍での落ち込みから回復傾向にあるが、最近は輸送費の高騰など物価上昇の影響も受けているそうだ。一方で、今年は夏休みが明けた後も連日大勢の人が訪れており、「早田さんの発言を聞いて来たという方もいらっしゃるので、発言の影響はあるのではないかとは思っています。ここ鹿児島は本土でも一番南にありますし、聞いてすぐに来られるという地ではありませんので、計画的に来ていただけるのではないかと思っています」と今後の来館者数の増加を期待した。
観覧にあたり、まず押さえておきたいのが特攻隊の基本情報だ。「特攻」とは「特別攻撃隊」の略で、主に爆薬を積んだ航空機で敵艦に体当たりする「必死」の作戦名を指す。実戦で初めて決行されたのは1944年10月で、終戦間際まで繰り返し続いた。戦局が苦しくなり、日本は兵力不足の課題に直面。歴戦のベテランパイロットも減少していた。そこで白羽の矢が立ったのが、少年飛行兵や学徒動員により徴兵された大学生だった。
少年飛行兵になるためにはまず、少年飛行兵学校に入学する必要があった。
「14歳から17歳あたりの方々が受験に応募することができます。もし14歳から入るとすると、通常で3年間学んで配属になるので、卒業する時は17歳、18歳というふうになります」と羽場さんは解説する。
望めば誰でも得られる資格ではなく、受験は狭き門だった。
「当時もパイロットは憧れの職業であったので、元々少年飛行兵学校は応募倍率がかなり高かった。時期によってさまざまですが、最大で30~40倍になったこともあるほどの難関でした。テストや体力試験を受けて少年飛行兵学校に入り、その後は基本的な国語や数学などの座学のほかに、飛行機に乗らなければいけないので気象学とか、あと機械のことも学ばなければいけないので、航空力学も勉強しました。もちろん体力も必要になってくるので運動もありますし、そういうのを経て、練習機→高等練習機→実戦機というふうな感じで、徐々に飛行機、戦闘機に乗れるような訓練をしていきます」
特攻隊員の遺書や手紙に「お母さん宛て」が多い理由 「お父さん宛て」は少ないの?
「特攻隊員はエリート」との評がある。戦死者のうち最年少は17歳。まだ高校生の年齢で、飛行機を操る技術だけでなく、教養や知性も兼ね備えていた。「倍率も高いと先ほど申しましたけど、そういった受験に受かるために、かなり勉強を日々重ねていったりするので、エリートというか成績優秀な方々が多いなとは思います」
知覧から飛び立ち沖縄戦で戦死した特攻隊員の平均年齢は21.6歳だった。学徒出陣の大学生は特別操縦見習士官という制度を利用し、パイロットになった。特攻隊員は全国各地から知覧に集まり、中には外国人もいた。「朝鮮(韓国)の方が11人いらっしゃいます」と羽場さん。日本の統治下だったとはいえ、故郷や家族を思う強い気持ちがなければ成し遂げられない任務だろう。
展示を通じ、若い世代に伝えたいことはどんなことだろうか。
川崎館長は「今回早田さんが特攻資料館に行きたいということで、特攻というものを知らない若者もいたと思うんですよ。そこで特攻資料館とはどういう資料館なのか興味を持っていただいた方もいるんじゃないかと思います。戦後79年が経過して、戦争を体験した方等も少なくなる中、身近な方から戦争のことを聞く機会も少なくなっていると思いますので、来館された方が当時の特攻隊の遺書や手紙等を見ていただいて、戦争により亡くなられた若者がいたという過去を踏まえて、これからの生き方をそれぞれで考えていただければいいのかなと考えております」と語る。
特に膨大な数の遺書や手紙は美しい字体や豊富な語彙(ごい)もさることながら、自分の人生がまもなく終わろうとしている中での極限の心理状態や家族への思いを見事に表現したものが多い。
遺書は母親に宛てたものが目立つが、それは特攻隊が若者中心だったということの証左だと羽場さんは話す。
「親や家族を大切にするというのは戦前から重要視されていたものだと思うんですけれども、若いゆえにやはり結婚をされてない方々が多かった。配偶者だったりとか自分の子どもがいないので、出撃前に自分が最後に感謝を伝える時に、育ててくれたお母さんを思い返して書かれているのが多いのかなと思いますね」
父親宛ての遺書が少ない理由については、「ご両親宛ても多いので、一概にお父さん宛てが少ないというわけではないです」と付け加えた。
衝撃的だった若者の言葉「戦争は人間を異常にするんですね」 繰り返してはいけない戦争の悲劇
何を感じ、何を持ち帰るかは、その人次第と川崎館長は強調する。「資料を見ていただいて、それぞれで感じ取っていただくというスタンスになります。こちらのほうから歴史認識についてこうという決めつけもありません。その当時のありのままの史実を見ていただいて考えていただきたいという館です」と訴えた。
中には、見学の途中でつらくなってしまう人も。その時は無理に見学を続ける必要はないとアドバイスする。
「資料を見て衝撃を受ける方や過激すぎてもう見ることができないという方もいらっしゃいます。その時は無理せずに、全てを見ていくというのではなく、ご自分が見たいと思った時に、またこちらのほうに再び来館して、見ていただければと考えております。いろんな生活や成長の過程でまた思うところも出てくると思いますので」
戦争や特攻という歴史を深く知らずに来館すれば、平和な現代とのあまりのギャップに強いショックを受けることもある。時には観覧後、川崎館長が驚くような言葉をかけてくる若者もいた。「ちょっとびっくりしたんですけど、来館された若い方から、『戦争は人間を異常にするんですね』という言葉をいただいたことがあります」と振り返った。
南九州市は「平和を語り継ぐ都市」を宣言している。戦争のむごさ、平和の尊さは、どの世代であっても日本人として未来に語り継いでほしいと願う。
「この大戦によって特攻という自らの命をなくす作戦が決行されました。戦争がいかに悲惨であるか、平和のありがたさをそれぞれ考えていただいて、二度と戦争を起こしてはいけないと考えていただければ幸いです」と川崎館長は結んだ。
※川崎館長の「崎」の正式表記はたつさき