タモリも「ファン」公言 先に世界で評価されたラテンバンドの波瀾万丈40年「みんな必死でした」
日本を代表するラテンバンド、オルケスタ・デ・ラ・ルスが今年、結成40周年を迎えた。5月には記念アルバム『Mas Caliente』をリリースした。同バンドは、1993年に国連平和賞を受賞。95年の第37回グラミー賞では、ベストトロピカルラテン部門にノミネートされるなど、世界で存在感を示してきた。国内でもタモリ、大黒摩季ら多くの著名人が「ファン」を公言している。バンドをけん引してきたのはボーカルのNORAで、ENCOUNTは彼女に自身の半生とバンドの歴史を聞いた。インタビュー前編は「バンド結成から海外でのブレイクまで」。
「オルケスタ・デ・ラ・ルス」NORAインタビュー前編
日本を代表するラテンバンド、オルケスタ・デ・ラ・ルスが今年、結成40周年を迎えた。5月には記念アルバム『Mas Caliente』をリリースした。同バンドは、1993年に国連平和賞を受賞。95年の第37回グラミー賞では、ベストトロピカルラテン部門にノミネートされるなど、世界で存在感を示してきた。国内でもタモリ、大黒摩季ら多くの著名人が「ファン」を公言している。バンドをけん引してきたのはボーカルのNORAで、ENCOUNTは彼女に自身の半生とバンドの歴史を聞いた。インタビュー前編は「バンド結成から海外でのブレイクまで」。(取材・文=福嶋剛)
NORAは1961年、東京・中野区で生まれた。子どもの頃から日本舞踊、バレエ、ピアノなどを習い、将来は宝塚歌劇団への入団を夢見る少女だった。しかし、両親の反対などでそれを断念。中高はバレーボール部で活動しつつ、兄の影響でキッス、ポール・マッカートニー、スティービー・ワンダーらの洋楽にのめり込んでいった。
「高校の文化祭で初めて人前で歌った時、『歌っていいな』って興味を持ち始めました。大学(日本大芸術学部)に入ると、爆風スランプの前進バンド、爆風銃(バップガン)の追っかけとなり、ライブハウスに通っていました。すると、私が歌えることをドラムのファンキー末吉さんが知ってくださり、別のバンドで一緒に演奏することになりました。私のボーカリスト人生のスタートです。中学生の英語の授業で付けられたあだ名『NORA』をアーティストネームにしました」
その後、NORAはラテン音楽に精通したミュージシャンたちと出会い、サルサを知った。サルサとは、キューバのルーツミュージックにジャズやソウルをミックスさせた音楽のこと。70年代にニューヨークに住んでいたキューバ系、プエルトリコ系の人たちが広めたと言われているが、日本ではマニアの間でしか知られていなかった。
「デラルス結成メンバーで、当時は別のバンドで一緒に活動していたパーカッションの大儀見元とティンバレスの江川ゲンタから『このティト・プエンテの音楽を聴いてみてよ』と言われたことが、私とサルサの出合いです。今まで聴いたことのないパーカッションのリズムにハマってしまいました。その後、母と旅行でニューヨークに行き、本場のサルサをクラブで体験して、完全に恋に落ちてしまいました(笑)」
ニューヨークから帰ってくると仲間とサルサを研究した。
「当時の日本には、本場のサルサの映像は皆無でした。そこで私たちの先輩バンド、オルケスタ・デル・ソルのキーボード・森村献さんのお家にお邪魔し、現地のミュージシャンから手に入れたプエルトリコの音楽番組のビデオテープを何度も見ながらステージングを研究しました。演奏スタイルやダンスのステップ、歌い方、『全てを盗んでやろう』ってみんな必死でした。歌はすべてスペイン語なので、米軍基地で知り合った人や大学でスペイン語を学んでいた大儀見元から教えてもらいました。NHKのスペイン語講座も受講しましたし、あらゆる手段を使って独学で覚えました」
84年にバンドを結成。先輩バンド、オルケスタ・デル・ソルの弟分ということでオルケスタ・デ・ラ・ルス(光の楽団)という名を付けた。総勢13人から成るバンドの最初の目標は「メジャーデビュー」だった。
「レコード会社とのつながりもまったくなくて、ゲンタと知り合いだったギタリストのCharさんに紹介してもらい、関係者とお会いしました。でも、スペイン語という壁もあってダメでした。ただ、いつか日本でヒットしたいという思いは、その後もずっと持っていました」
次にNORAは海外でチャンスをつかもうと、バンド活動とアルバイトで2年間コツコツとお金を貯め、1人で日本を離れた。
「始めは、彼らの生活をリサーチしながら『どうやったらラティーノ(ラテン圏の人達)に私たちの音楽が受け入れてもらえるか』という目的でパナマに行きました。米軍の基地で知り合ったパナマ人のご実家に泊めさせてもらい、1週間の予定でしたが、カーニバルの時期で楽しくなり、車中泊をしながら、2週間滞在しました。その後、プエルトリコを経由して、ニューヨークのマンハッタンに向かいました。語学留学という名目で1か月滞在しながら、デモテープを持ってクラブ中を回り、片っ端から関係者に電話をして売り込みをかけました。そこで今でも付き合いのある現地のコーディネーター、リッチーと出会いました。彼はその後、デラルスの世界進出をサポートしてくれた重要人物で、まさに運命の出会いでした。リッチーには『メンバー全員分の渡航費を貯めたら、また戻ってくる』と伝えて、それから2年後、メンバー全員で渡米しました」
日本からやって来たデラルスのうわさは瞬く間にニューヨークに広まった。会場には、その演奏力に度肝を抜かれたファンが集まり、連日大盛況となった。そして、ラテン音楽界の大御所プロデューサーが現れた。
「実はその2年前、ニューヨークに来た時に彼にデモテープを渡したんですが、まったく反応がなかったんです。ところが今度は楽屋に契約書を持ってきたので驚きました」
全米ビルボードラテンチャート11週連続1位
結成から6年後の90年には念願の国内デビューを飾った。そして、サルサの名門レーベル・RMMから全米デビューが決まった。ここからバンドの快進撃が始まった。
「初めての海外ツアーは、私たちの演奏や独学で学んだスペイン語の歌をちゃんと受け入れてくれるのか不安でした。演奏を始めると最初の2、3曲は、見たことのない日本人たちが自分たちの音楽を演奏しているから、不思議なものを見るようにしばらくジーっと黙っていたんです。私もドキドキしながら歌っていたら、突然、踊り出しました。その瞬間、『成功した』って喜びましたね」
世界を回るようになると、ステージから文化の違いも学べたという。
「プエルトリコやカリブ海に近い島の人たちは、激しいリズムが好みです。パーカッションの音によるテンポの速いインストゥルメンタルな曲を演奏すると盛り上がります。その反対にゆっくりした歌になると、つまらなそうな顔になるんです。ペルーやメキシコといった大陸系の人たちは、反対にバラードとか歌を一緒に歌いたいお客さんが多くて、インストの曲をやると、『歌え、歌え』っていうコールが始まるんです。そんな違いを最初のツアーでリサーチして、2回目のツアーで、それを生かして演奏するとものすごく盛り上がる訳です。アクシデントやハプニングもいっぱいありましたけど、楽しいツアーでした」
日本より先に海外でブレイクしたデラルスは、90年に満を持して全米デビューを果たした。1stアルバム『サルサ・カリエンテ・デル・ハポン』は、全米ビルボードラテンチャートで11週連続1位という快挙を達成し、ゴールドディスクを獲得。中南米ではライブを行った翌日の朝刊紙で1面を飾った。その後も「サルサの女王」と呼ばれたキューバの歌手セリア・クルスとの共演やカルロス・サンタナと全米ツアーを回るなどした。アジアからやってきたバンドが、ラテン音楽界でトップに立った。だが、その活躍ぶりは日本には伝わっていなかった。帰国しても、成田空港で待つファンの数は0人だった。(後編へ続く)
□オルケスタ・デ・ラ・ルス 1984年結成。89年、自費でニューヨークでのツアーを開催して注目され、90年、BMGビクターから国内、海外デビュー。その際のアルバムが全米ラテンチャートで11週連続1位を獲得。その活動が世界で認められ、国連平和賞(93年)、グラミー賞ノミネート(95年)、日本レコード大賞特別賞(91年、93年)、New York批評家協会賞(91年、92年)、NHK紅白歌合戦出演(93年)、カルロス・サンタナとの共演など、輝かしい実績を残した。97年に解散し、2002年に活動再開。井上陽水、松任谷由実、宮沢和史、山崎まさよし、大黒摩季らとのコラボレーション、ヨットレース大会のタモリカップなどのイベントに出演。現在も国内でラテン音楽を広める「日本ラテン化計画」をテーマに、精力的に活動を続けている。今年5月、40周年記念アルバム『Mas Caliente』がパナマ、ロシア、ケニア、日本でiTunes Storeトップラテンアルバム1位。総合トップアルバムでパナマ2位、ロシア6位を記録。
オルケスタ・デ・ラ・ルス公式HP:https://www.laluz.jp/info