離日のドリー・ファンク・ジュニア がんステージ4のまな弟子を気遣う「彼はとても強いファイター」

プロレス界のレジェンド、83歳のドリー・ファンク・ジュニアが28日、米アトランタ行きのデルタ航空便で帰国した。「川崎伝説」(24日、神奈川・富士通スタジアム川崎)での電流爆破戦のダメージが心配されたが、空港ではデザートとアイスをたいらげるなど元気いっぱい。離陸直前には日本のファンに“惜別のメッセージ”を残した。

羽田空港でチェックインを済ませたドリー・ファンク・ジュニア(右)と見送った西村修【写真:ENCOUNT編集部】
羽田空港でチェックインを済ませたドリー・ファンク・ジュニア(右)と見送った西村修【写真:ENCOUNT編集部】

「私は日本に来られてとてもとても幸せだ」

 プロレス界のレジェンド、83歳のドリー・ファンク・ジュニアが28日、米アトランタ行きのデルタ航空便で帰国した。「川崎伝説」(24日、神奈川・富士通スタジアム川崎)での電流爆破戦のダメージが心配されたが、空港ではデザートとアイスをたいらげるなど元気いっぱい。離陸直前には日本のファンに“惜別のメッセージ”を残した。

 ドリーはまな弟子の西村修と組み、大仁田厚、雷神矢口組と激突。83歳での来日、しかも、初の電流爆破マッチとあって体調面が不安視されたが、爆破や火花をものともせず、伝家の宝刀スピニング・トーホールドを矢口に決め、西村の勝利をアシストした。1年前に天国へと旅立った弟のテリー・ファンクの命日に、衰えることのないファイティングスピリットを披露し、駆けつけた往年のファンを魅了した。

 来日はコロナ禍の影響で5年ぶりだった。83歳という年齢を考慮し、これが最後の来日、日本でのラストマッチと喧伝されたが、ドリーは「いつ日本に戻ってくるかって? エニタイムだ。私にはあと10年ある。私はプロフェッショナルレスラーだ。すぐに戻ってこれるように努力するよ。5年も待つなんてごめんだ」と血気盛んだった。

 離日の前にこみ上げたのは、日本での懐かしい思い出だった。

「対戦した中で最高のレスラーは猪木と馬場です。猪木との1時間の試合は今でも記憶に残っている。あれは最高の試合だった。私は猪木、馬場、坂口(征二)を忘れることはできない」

 1969年12月2日、日本プロレスの大阪府立体育会館大会で、ドリーはNWA世界ヘビー級王者として挑戦者・猪木を迎え撃った。試合は60分時間切れとなり、今でもプロレスファンの間で語り草になるほどの名勝負だった。

「日本で楽しい時間を過ごした。5年間(日本に来れなかった)。私はここに来られてとてもとても幸せだ」

5年ぶりの来日で初の電流爆破戦に臨んだ【写真:山口比佐夫】
5年ぶりの来日で初の電流爆破戦に臨んだ【写真:山口比佐夫】

「テリー・ファンクを失ってとても悲しい」

 電流爆破への出場には賛否があった。

 ドリーは全く気にしていない。

「素晴らしい試合だった。彼らはここで素晴らしいレスリングを生み出した。日本は常に最高のレスリングの地だ。レスリングが見たいなら日本へ行ってください。格闘技が見たいならアメリカへ行ってください。とても良かったです。それを理解してくれる人がいれば、本当にありがたいこと」

 大きなダメージもなく、空港ではいちごサンデーを食べ終えた後に、アイスクリームまでペロリ。「日本に来る前は、膝に少しけががありました。でも今は大丈夫です」と回復ぶりをアピールした。

 リングにはテリーの遺影を持って上がった。思いを聞くと、神妙な表情になった。

「テリー・ファンクを失ってとても悲しい。彼は偉大なレスラーだった。彼はチャンピオンだった。彼は異なるスタイルを持っていた。そして彼のスタイルは輝いていた。テリー・ファンク、彼はいつもいいやつだった」

 そして、ドリーは西村の体調を気遣った。

 食道がんステージ4という極限の状況下で、パートナーに名乗り。入院や治療と並行して懸命にトレーニングに励み、師弟タッグを結成した。リングではドリーの身代わりとなって被爆する場面もあった。

「西村修は素晴らしいプロレスラーだ。いくら感謝してもしきれない。彼は日本での私のパートナーだ。そして彼はとても強いファイター。本当にすごい。西村修に感謝しているし、(がんと闘病する)彼に『イツモガンバッテクダサイ』と言いたい」

 病魔と戦うまな弟子に送った心からのエール。また会う日まで。ドリーは再会を約束し、機上の人となった。

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