「誤審はほぼなかった」パリ五輪柔道、現場とネットに温度差 角田夏実の母校監督・久保田浩史氏が解説「ルールは改訂されている」
パリ五輪・柔道競技では日本は金メダル3個、銀メダル2個、銅メダル3個の合計8個のメダルを獲得。五輪公式が発表したランキングでは開催地で柔道大国・フランスを上回る1位に。柔道が大いに盛り上がった大会となった一方で連日ネット上では「誤審」を疑う声や記事が拡散された。現在も最前線を見ている“現場”はどう感じていたのか。48キロ級で金メダルの角田夏実の母校・東京学芸大柔道部監督であり同校の芸術スポーツ科学系・准教授の久保田浩史氏に話を聞いた。
柔道中継に提言「審判目線の解説者も」
パリ五輪・柔道競技では日本は金メダル3個、銀メダル2個、銅メダル3個の合計8個のメダルを獲得。五輪公式が発表したランキングでは開催地で柔道大国・フランスを上回る1位に。柔道が大いに盛り上がった大会となった一方で連日ネット上では「誤審」を疑う声や記事が拡散された。現在も最前線を見ている“現場”はどう感じていたのか。48キロ級で金メダルの角田夏実の母校・東京学芸大柔道部監督であり同校の芸術スポーツ科学系・准教授の久保田浩史氏に話を聞いた。(取材・文=島田将斗)
日本勢の活躍の一方で男子60キロ級・永山竜樹の「待て」を巡る不可解な判定を皮切りに「誤審」というワードがネットやテレビであふれた。Xでは競技初日から「柔道の審判」がトレンド入りする事態に。五輪だけでなく、常日頃最前線にいる久保田氏の第一声は「誤審はほぼなかったと思います」だった。
「柔道のルールは一定期間で改訂されています。柔道の国際大会も大会ごとに微妙に判定が異なることもあります。例えば反則の指導の取り方が厳しめであったり、緩めであったり、早かったり遅かったり。でもメディアが注目するのは4年に1度のオリンピックなので。3年前の東京五輪からすると『変だな』と感じたのでしょう。たまにしか試合を見ない人、国際大会を見ない人、国内の試合しか見ない人からすると『なんだこれは』と。過去に柔道していた人が今回を見た時に『こんなの柔道じゃない』となってしまったのだと思います」
試合をジャッジするのは機械ではなく人間だ。考え方に差が出ないようにするために、事前に審判会議を行い、試合審判規定の確認をするのが通常だ。
「さまざまな大会の審判会議で基本的事項や注意すべき事項を確認します。試合をダイナミックに動かすことを念頭に置いたときに、両方に指導を与えても試合自体は動かないので、消極的な方を審判が見極めて指導を出そうとかですね。そうやって試合を動かしていこうというのが審判の基本スタンスです」
その上で競技が行われた8日間は判定基準に大きなブレはなかったという。開催国であるフランスの選手に対しても、指導を出すかどうかの微妙なラインで観客の歓声やブーイングに流されなかったケースもあり、おおむね「公平」だったと指摘した。
男子60キロ級の永山がフランシスコ・ガリゴス戦で審判からの「待て」がかかった後に落ちてしまった試合については、こう見解を示した。
「『待て』がかかってガリゴス選手がすぐ離せば良かったですが、観客の声もあって聞こえなかったと聞きました。そうであれば聞こえるまで審判は近づいて『待て』を言わなければならなかったと思います。『待て』から離すまでの間に3~4秒あって、その間に落ちるというのはあり得ます。袖車絞でしたけど、それを審判自身が実際にやったことあるかどうかもポイントなのではないでしょうか。『この形なら絞めが入るから少し時間を見た方がいいよね』とその技の経験者なら思うかもしれません」
今大会では審判の質も議論になったが、現在は五輪レベルの審判に格差はないという。
「ドゥイエ―篠原(※)は完全な誤審だと思います。あのときは『この大陸から何人出す』と決めていたので不慣れな審判が五輪に出てくるということがありました。そういった過去の過ちもあるので、審判のレベルは上がっていて、いまの五輪にはいろんな大会で経験を積んできている方が起用されています。システムも出来上がっているので、ジャッジができない人は上の大会に出てこれません」
(※)シドニー五輪柔道男子100キロ超級決勝で日本代表の篠原信一はフランスのダビド・ドゥイエを内股すかしで投げるが「一本」と判断されず。投げられたドゥイエに「有効」のポイントが入った。
“かけ逃げ”に寛容なケースもある現行ルール
なぜ柔道のルールは変わっていくのか。変更の目的は「“投げる”や“固める”をダイナミックにすること」。“指導”の一因となる「かけ逃げ(偽装的攻撃)」を例に出して説明した。
「ルールができると、ルールを上手く使って勝とうとする人がいるわけです。でも、それも現行ルールのなかでやっていることなので、決して悪いことではないんです。しかし、そこで起きる指導の取り合いのような試合が面白いのか、となります。
例えば国際柔道連盟(IJF)は技をかけた数を稼ごうとする“かけ逃げ”には厳しくなっています。しかし担ぎ技系、捨て身技系には“かけ逃げ”も寛容な傾向があります。投げる気はなくても、相手のチャンスだから流れを切る。このまま組んでかけられたら自分が不利になるから“かけ逃げ”を取られない技をかけてリセットしようと上手く利用するケースもあります」
さらにこう続けた。
「しっかり組んで投げるために技をかけるではなく、相手に柔道をさせないことを考える。これで投げ合いが出てくるのか……。柔道の根本を理解していれば、“かけ逃げ”のようにはならないですが、競技者としてみれば相手の技を受けたくない。自分だけが組んで投げれば安全圏で戦える、こういう発想にはなってきますよね。選手によってルールを使って勝つ者もいるし、しっかり組んで投げていくスタイルの人もいます」
今大会でも目立ったのが立ち技の際に帯より下に手が触れてしまうことへの指導だ。このルールはいわゆる「タックル柔道」を防止するためのものであったが、現在は少し触れてしまっただけでも指導となる。立ち姿勢における相手の帯より下に触れた場合の指導は緩和される可能性もあると指摘した。
帯より下に触れない肩車を披露したのがフランスのジョアンバンジャマン・ガバだ。ガバは混合団体決勝でこの肩車で阿部一二三を投げた。「SNS上では『こんなの柔道じゃない』と出ていましたけれど、元の肩車が改良されたもので、あれも柔道です」と説明した。
日々変わっていく国際ルール。日本選手が苦しんだ時期もあった。
「指導と頭では分かっていても体が自然に反応してしまうこともあるんです。例えば持たれた袖を切って離れる。これはいま指導なのです。当初このルールになったときに日本代表が国際大会でそれで負けてしまうケースがありました。競技者は、大分慣れてはいるんですけど、今回の五輪でもそういうケースはありました」
その例とも言えるのが角田夏実と準決勝で戦ったタラ・バブルファス(スウェーデン)に出された最後の指導だ。18歳のバブルファスはゴールデンスコアで角田の引き手(袖)を両手で1度切り、離れ、急いで駆け寄って内股を仕掛けた。角田の体も一瞬浮いた内股となったが、主審は「待て」をかけ、バブルファスに3つ目の指導を与えた。
「柔道解説をしていた佐藤愛子先生にも直接会って話を聞いたんですけども、あの試合(角田準決勝)まではそこまで厳しく指導を取っていなかったと。逆にあそこから今回の五輪は厳しくなっていったようですね」
現代柔道では、相手の分析や己の鍛錬のほかに審判の判断基準も把握しておく必要があるようだ。バブルファスの判定はまさにその瞬間だったと言える。
「大会の流れ、どんな審判かは当日判断していく必要がありますね。全柔連もヨーロッパ大会などの審判傾向を探っています。例えばこの審判は指導が早いよ、厳しめだよ、寝技の時間を取るよ、とか。コーチ陣が把握しておけば、試合前に審判に応じたアドバイスができますからね」
なんでも「誤審」と書くメディアも「今の柔道を解説をする人がいれば…」
今回は「誤審」という言葉が独り歩きした。そういった報道や投稿が多かった状況に柔道関係者として肩を落とす。
「オリンピックになると柔道が注目されると思うので、そこで視聴回数、PV数を増やそうと思うと刺激的な文章になるのかなと……。どこもみんな『誤審だ』と言っていたけれど、そうではないっていう部分を誰か冷静に書いてほしかったです。火消しというか今の柔道を解説をする人がいればよかった。審判とか元選手に聞いている媒体もあったのですが、現場から離れているケースもあります。それとXのユーザーの言葉を引用しているところ、これはひどいなと。
私も現場を離れていれば『こんなの柔道じゃない』って言っていると思う。しっかり組んで投げることこそが柔道だと。だけど、現場で見ているとルールに則ってやっていることだし判定に違和感はなかった。それが一般の見ている人にとって面白いかどうかは別なので、『誤審だ』と審判を断罪するのではなく、『このルールで行われる柔道競技は面白いのか』という議論から出る批判なら良かったと思います」
競技の特性上、どうしてもグレーゾーンは出てきてしまう。
「審判が100人いて、スコアを取るのかどうかという場面で、49人が取らないって言っても51人が取ると言えば公式判断は『取る』になるわけです。どうしても微妙なグレーゾーンって出てくるんです。でも審判はルールに則って判断しているから誤審と言われたらかわいそうだし、誤審にならないようにビデオシステムがある。村尾三四郎選手のビデオ判定がなかったのは、投げられた選手はお尻をついただけ。いまのルールでは明らかにスコアにならないんです」
その上で今後の柔道中継についてこう提言をした。
「私の仲間も言っていたのですけど、中継する際には技術解説だけでなく、審判目線の解説者も入れたらいいと思います。審判目線で、今の時代のジャッジの流れを説明できたり、選手に指導が出されそうなタイミングも伝えてくれるといいですよね。
あとは、日本では日本代表選手中心の放送になることも分かるんですけど、日本代表選手の試合だけが面白いわけではないので、いろんな試合を映してほしい。意外かもしれませんが海外選手同士の試合ですごい技が出てきたりするんですよ。視聴率の関係もあるとは思いますが、『スポーツをどう伝えるか』という文化が重要である気がします。本質を突いた方が今後のためにはいいのではないでしょうか」
未来担う学生たちに伝える柔道の本質「『勝てばいい』ではないんです」
東京学芸大柔道部の方針は「組んで投げる」ということ。しかし、投げだけを強化していては試合にならない。ルールを知り勝ちに徹することとのバランスを大切にしている。
「ルールを利用して競技をするのは良いんだけど『勝てばいい』ではないんです。組んで投げようとしているうちに指導が取れた、みたいな勝ち方はいいです。逆に投げに行こうとするときにいろんなことをしないと相手に技をかけられてしまう。指導差で負けるのは面白くない。自分の柔道をさせてもらえないときでもいい柔道ができるようにいろんな技術が必要になってきます。組んで投げるという本質は見失わないようにとは伝えています」
同柔道部では監督やコーチが選手に一方的に練習をさせることはない。部員それぞれに自主性を持たせ、考えさせて練習している。
「練習でも投げ合う楽しさを求めています。組み手関係なく“ノーガードで打ち合う”と投げ技は出てくるんですけど、それだと試合でこちらだけ柔道をさせてもらえない。そこで『相手に柔道をさせない工夫をしなさい』となるんですね。バランスなんです。勝ちだけにこだわってもいけないし、投げだけにこだわってもその技自体が出せない。投げるためには組み手だったりの動作があるので、そこのレパートリーを増やしていきましょうと。
試合後にルールを活用できていないことが分かれば、審判目線を入れた方がいいという議論にもなります。乱取り中の合間で休んでいる部員は『いまの○○の指導だよ』と指摘したり、投げたときにはスコアも言ってあげる。審判目線を入れる練習を学生たちは伝統的にやっています。練習量や知識は部員によって違う。ひとつの視点からだと偏ってしまう。私を含めコーチと学生たちの視野を広げる考えるきっかけを作るようにしています」
SNS時代は特に多角的な視点を意識するのが難しくなっている。久保田氏は学生に日頃から伝えていることがある。
「10の力をつけようという目標があって、そのなかに『好奇力』というのがあります。面白いと思って取り組んだら何か分かってくるし、向上する。あとはアンテナを張っておいて、何か面白いと思うことを突き詰めてやる。そうすると本質をつかめてくる。『目先のものにとらわれるな』みたいなことは伝わっているかなと思います」
日本発祥ながらスポットライトが当たるのは4年に1度という状況になっている柔道。SNSの普及で誰でも評論家になれる時代だからこそ、メディアは「今の柔道」を伝える必要がある。