アントニオ猪木の運転手務めた“イス大王”が明かす秘話 橋本真也との伝説ケンカマッチ、全日と新日の違いも
26日まで、東京・新宿の京王百貨店の7階にある大催事場にて「超 燃える闘魂 アントニオ猪木展(超猪木展)」が開催されている。展示場には所狭しとアントニオ猪木にゆかりのある品が展示されているほか、30日までは京王電鉄にて猪木列車も運行中だ。そんななか猪木に薫陶を受けた昭和のプロレスラーを直撃した。その男は“イス大王”栗栖正伸である。かつて新日本プロレスでは猪木の運転手も務めながらリング上で激しいファイトを展開していた栗栖に、猪木との思い出話や当時の激闘秘話を聞いた。
高速道路を逆走した猪木の運転手時代
26日まで、東京・新宿の京王百貨店の7階にある大催事場にて「超 燃える闘魂 アントニオ猪木展(超猪木展)」が開催されている。展示場には所狭しとアントニオ猪木にゆかりのある品が展示されているほか、30日までは京王電鉄にて猪木列車も運行中だ。そんななか猪木に薫陶を受けた昭和のプロレスラーを直撃した。その男は“イス大王”栗栖正伸である。かつて新日本プロレスでは猪木の運転手も務めながらリング上で激しいファイトを展開していた栗栖に、猪木との思い出話や当時の激闘秘話を聞いた。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
普段、栗栖正伸は大阪に居を構えている。それが8日、東京・高円寺にある「CACCスネークピットジャパン」(宮戸優光代表)でのトークイベントに出演すべく、東京入りを果たした。栗栖と猪木の出会いは、1972年に猪木が新日本プロレスを旗揚げするべく、その準備に奔走していた頃、米国で修行していた栗栖を知人から紹介されたことにはじまる。その後、新日本が旗揚げしてしばらくすると、栗栖はレスラー兼、猪木の運転手としての役割を果たした。
「今みたいにカーナビなんてなかったから、毎日、地図とにらめっこしながら運転していたね。だけど俺は、自慢じゃないけど、猪木さんに怒られたことはなかったよ」
この会話には、宮戸代表も入ってきて、生前の猪木と栗栖のやりとりを証言した。宮戸代表は、とくに晩年の猪木とは親しい間柄だったことが知られている。
猪木「普通よ、東京から茨城のほうに行くときに、太平洋はどっちのほうに見える?」
宮戸「右ですね」
猪木「だよな。だけど試合が終わって、帰りの車に乗っていて、パッと気づいたら、また太平洋が右側に見えるんだよ。俺もしばらく放っておいたけど、さすがに栗栖に言ったよ。『お前、どこに行く気だよ』って。そしたら栗栖が『ええっ?』って言うから、『止めろ!』って運転を変わったら、ドーンって車をぶつけちゃったよ」
この話を栗栖が捕捉した。
「あの時は雪が降っていたんだよ。だからチンタラチンタラ運転をしていたら、猪木さんが『何をやっているんだ、この野郎。代われ!』って。そしたらドーンですよ。車を木にぶつけちゃったね。俺はそんなことは一度もなかったよ。安全運転だったから」(栗栖)
また、これは当時だから許された話なのか、高速道路を逆走したこともあったという。
「自慢じゃないけど、出口を乗り過ごしちゃって。先を見たら、次の出口まで30キロ以上あるって書いてあったから、通り過ぎちゃった出口までバックで下がったよ。それまで猪木さんは寝てたけど、思わず起きたね」
当時、小学生の長女が栗栖に勝った橋本真也にビンタ!
当時の新日本では、“狂虎”タイガー・ジェット・シンが全国各地の会場で暴れ回っていたが、栗栖は「タイガーとは一番手が合ったんじゃない?」と話すと、傍にいた栗栖夫人が、シンとの恐怖体験(?)を披露してくれた。
「この人(栗栖)がメキシコにいる時に、当時、生後10か月だった子どもとメキシコまで向かったんですけど、(シンと)バンクーバーまで一緒やったんですよ、飛行機が。そしたら何回もウチらの席に来て。子どもをあやしてくれるんやけど、(あまりにも何度も来るから)席に帰って! と思ってましたね」(栗栖夫人)
それでもメキシコで、シンと栗栖は家族ぐるみの付き合いをしており、夜中にプールで騒いだこともあった。
「俺は猪木さんにくっついて、仕事の時はタイガーにも会ってましたよ。だから両方知ってんねん。猪木さんに習ったスタイル、タイガーに教わったスタイル。どっちも知ってるから、悩まないでやれていたってことはありましたよ、メキシコでもね」
とはいえ、栗栖には心残りがひとつある。
「メキシコではアンドレ・ザ・ジャイアントとも一緒だったことがある。だけどアンドレと一緒の店で食事をすると、アンドレはみんなの分、全部払うんだよ。だから日本にいる時には飯に連れて行って、好きに食わしてあげたかったね。お返しができなかった。唯一、俺の心残りはそれだな」
当時は新日本と全日本がマット界を二分し、激しい火花を散らしていた。両団体に参戦していた経歴を持つ栗栖は、両者の違いをどう考えていたのか。
「理屈から言えば一緒なんだよ。ただ、違いはあるよ。新日本はビシッとしてんねん、気が入って。全日本はデレーッとしているんだよな。それがいいか悪いかじゃなくて、厳しさがどっちにあったか。今はどうか知らないけどね」
また、ジャイアント馬場に関する印象について栗栖は、「俺はいい人だったと思う。だって筋を通す人だったから」と話しつつ、次のように答えた。
「(馬場さんには)練習をしないイメージがあったけど、この前、テレビで見たら練習はしてるじゃん。とくに若い頃はさせられたと思うよ。だってあの大きなカラダであんなドロップキックするぅ? 俺は馬場さんは馬場さんですごいと思うよ。まあ、女房が悪いんだよ。(旦那を)ダメにするのはね」
ちなみに栗栖といえば、今も語られる伝説のケンカマッチの経験者でもある。
1990年8月3日、後楽園ホール。43歳の栗栖と対戦したのは25歳の“破壊王”橋本真也だった。入場時、栗栖のイス攻撃で橋本が手の甲を負傷(亀裂骨折)したままリングに上がると、栗栖はシンプルに殴る・蹴るに頭突き。蹴りにしても顔面狙いの蹴り(本人いわく、チンピラキック)を繰り出していく。
試合中、激しいぶつかり合いの中、栗栖は右足のふくらはぎの筋肉を断裂。苦肉の策で急所蹴りを見舞い、場外戦に誘ったりしながら急場を凌いだが、最後は橋本による得意のDDTからフライングニールキック、さらにはジャンピングDDTを食らい、9分26秒、体固めで橋本が勝利を収めた。
もちろん両者の渾身を込めたぶつかり合いで会場は大爆発。大橋本コールの中を橋本は控室に向かったが、ここで、まさか栗栖の長女(当時、小学6年生)と出会ってしまう。
普段から橋本は彼女と仲良くしていたこともあり、バツが悪くなって、橋本がおどけた顔をした瞬間、長女は橋本の横っ面を思い切りビンタしたという。
のちに橋本は「栗栖さんの椅子攻撃より、娘さんの一撃が骨まで染みた」と語ったとされている。
「(師匠・猪木に)お前は誰だ?」
栗栖はそのことに触れると、多くを語らず、「橋本とそういう試合をしたってことは、コレ(度胸)があったってこと。人間っちゅうのは、いい試合・悪い試合コレよ。コレしかないんだよ」とだけ言葉を発した。
なお、試合後の橋本は控室に帰ってもそのままダウン。
一方、リング上で大の字になった栗栖は、両手でマットを叩いてリングを降りたが、その段階ですでに両目には涙を浮かべながら、「俺はお客さんの温かい心に泣けてしまった」との言葉を残して、翌日からは戦線を離脱した。
「せっかく(フリー参戦して)ギャラが上がったのにな(苦笑)。まあ、人生そんなもんよ」
そう言って栗栖は橋本戦を懐かしそうに振り返った。
再び、栗栖が猪木の運転手を務めていた頃の新日本に話を戻すと、当時の新日本は「道場幻想」で知られているほど、強さを追い求めた練習は半端ではなかったといわれている。
これに対して栗栖は、「厳しい練習は当たり前じゃん。それができなかったら辞めていくだけ、今となってはそう思う」と答え、昔の仲間について話し始めた。
「だけどキラー・カーン、木戸修さん、ドン荒川……、まさか死ぬと思わないじゃない。キラー・カーンだって(暴露話が注目されて)いろいろ言われていたけど、俺は手が合うほうだったから。ケンカもしたけど、最終的にはまたいいムードでね。人間なんてそんなもんよ。誰が性格が悪かったかって? そんなの、細かいことを言い出したらキリがない。ビックリしますよ。だからやっぱり寂しいよね」
当時、栗栖は道場の近所に住んでいた。栗栖夫人の話によると、「佐山(聡)さんや平田の淳ちゃん(淳二=スーパー・ストロングマシン)も、よく来てましたね。道場での練習を終わって、帰りしなによくウチに寄って遊んで帰ってましたよ」と話してくれた。
「だけど猪木さんは、どんなに忙しくても道場で汗を流していたよ。誰だって手を抜くけど、それでも猪木さんは最低限できることをやっていたよ。あの人のお手本を見て、俺はいい勉強になったよね」(栗栖)
最後に再び宮戸代表に登場願うと、晩年の猪木と栗栖に関するやりとりを再現してくれた。
「いやね、あまりにも猪木会長から栗栖さんの話が出るから、話している最中に『栗栖さんに電話してみますか?』って聞いたら、『連絡先を知っているのか』『知ってます』『してみろしてみろ』ってことになったんですよ。その後、僕が栗栖さんに電話して、『栗栖さんですか? ちょっと待っていただけますか』って伝えて、ケータイを会長に渡したの」(宮戸代表)
もちろん、猪木はいつものように「元気ですかーッ!」と声高に口にするが、どうやら反応がなかったようだ。
「会長が『元気ですかーッ!』『元気ですかーッ!』って何度か言われて、その後に、『てめえは自分の師匠の声も忘れたのか、この野郎!』って(電話の向こうの栗栖に)言われたんです。だから僕が変わって、『栗栖さん、何を言われたんですか?』って聞いたら、『勘弁してくれよ。本物の猪木さんじゃないの! お前は誰だ? って言っちゃったよ』って」(宮戸代表)
古き良き新日本プロレスと猪木との師弟関係。それはどれだけ時間を経過しようとも、決して色褪せることはない。(敬称略)