藤子・F・不二雄先生に“文句連発”で連載が終了 一世風靡したえびはら武司先生が語る師匠の素顔
『まいっちんぐマチコ先生』でおなじみのえびはら武司先生(70)は、かつて藤子スタジオでアシスタントを務め、藤子・F・不二雄(=藤本弘)と藤子不二雄A(=安孫子素雄)両先生に師事した漫画家だ。近くで見続けていたからこそ語ることのできる、藤本先生と安孫子先生とのエピソードを教えてくれた。
『オバケのQ太郎』誕生の裏側「体が真っ白で仕上げが楽」
『まいっちんぐマチコ先生』でおなじみのえびはら武司先生(70)は、かつて藤子スタジオでアシスタントを務め、藤子・F・不二雄(=藤本弘)と藤子不二雄A(=安孫子素雄)両先生に師事した漫画家だ。近くで見続けていたからこそ語ることのできる、藤本先生と安孫子先生とのエピソードを教えてくれた。
漫画家を志していたえびはら先生は高校卒業後、まもなくして、藤子スタジオの門をたたいた。
「藤子先生の作品が大好きだったんです。どうせならいい先生のところで働きたいと思って、電話をしたんです。そんなに苦労なく入れちゃいましたね(笑)。ちょうど人が辞めるタイミングと重なって運が良かったんです。初めて電話をしたときもF(=藤本)先生が出てくれました。ボソボソとしゃべる愛想の良くないおじさんが電話に出たなと思ったら最後に『藤本です』って言われてびっくりでした(笑)。
12時に電話かけると迷惑かなと思って、1時を過ぎたころに電話したんです。後から分かったんですけど、藤子スタジオは13時ごろがお昼休みでね。みんなが外食する中、F先生だけは、奥さんのお弁当を食べるんですよ。だから部屋に先生しかいないタイミングだったんですよね。
僕のときは、人がいないんで入れてやるよぐらいのノリでしたね。先生のところは、あまり絵のうまい下手は関係なかったみたいです。『絵は描いてりゃうまくなるよ』って(笑)。むしろ人間性とかを重視していたみたいですよ。僕の後に入った人は『野球できます』と言ったら入れたみたいです。野球チーム作ってるから1人ピッチャーが欲しかったとか言ってたね(笑)」
初めて担当した作品は『ジャングル黒べえ』だった。その後に『ドラえもん』などを描くようになっていった。意外にも直接教えてもらう機会は少なかったと明かす。
「『これやって』って感じで原稿を渡してくれるんです。絵の描き方はチーフアシスタントの方に教わることが多かったですね。でも、僕は座席的にF先生の目の前で仕事をしていたので、たまに直接聞いたりもしていました。アドバイスは適当でした(笑)。『いいんじゃない、それで』みたいな。あまり細かいことは言わない人でしたね。とても穏やかないい人でしたね」
藤子・F・不二雄の抜群の構成力「『俺はダメだな』って」
藤子不二雄の作品ができていく過程を間近で見てきたえびはら先生。才能に驚かされることも多かった。
「F先生は本当に構成がうまいんです。僕もなんとか構成力を身につけようと思ったんだけど、そういう授業をやってくれるわけではないから、まねするんですけど、やっぱりものまねにしかならないんですよね。『俺はダメだな』って漫画家を辞めようかと思ったことも何度もあります。子どもの頃は絵を描ければいいと思っていたけど、やっぱり漫画って絵以外の部分が大切なんですよね。
F先生は設計図を描く漫画家なんですよ。別のノートに漫画のコマ割りを全部描いてから、原稿用紙に描く人なんです。だから、突然10ページ目を描いたり、順番がバラバラでも描けるんですよ。『このページは作業が大変だから、こっちを先に描いて』とかね。頭の中に設計図があるからできることなんですよね。本当にすごい人だなと思いますよ」
実際にえびはら先生もその構成力を身につけるべく、教えを請うこともあった。
「ある日、F先生に聞いたら『小説を読んだり、映画を見るようにしなさい』と言われましたね。その影響で今も映画が大好きなんです。あとは落語のレコードも貸してもらいました。でも当時18、19の僕には古今亭志ん生の落語が何を言ってるか分かんないんですよ(笑)。でも『何度も聞いていれば分かってくるから聞け』ってね。カセットテープに録音して、ウォークマンで聞いてました。藤子先生はもともとはSF漫画家で、『オバケのQ太郎』が初めてのギャグ漫画だったんですよ。そのときに落語を聞いて勉強していたみたいで、それを僕にも教えてくれたみたいです」
藤子流のギャグ漫画の原点にして、名作となった『オバケのQ太郎』。誕生の裏側も明かした。
「なんで藤子先生がギャグ漫画を描くようになったかというと、絵が簡単で速く描けるからなんですよ。特に『オバケのQ太郎』の頃は少ない人数でやっていたからというのがあるみたいです。体が真っ白で仕上げが楽なんですよ。それでいて背景も簡単。そういう理由があったみたいですよ(笑)」
また、藤本先生と安孫子先生の人柄についても笑顔で語った。
「僕はF先生のお手伝いが多かったですね。でも、私生活はA(=安孫子)先生によくしてもらっていたかもね。というのも、大部屋にF先生とアシスタントがいて、A先生は作業する部屋が別だったんですよ。作業中はA先生と話す機会がなくて、ご飯を食べに行ったりするときにようやく話せる感じでした。A先生はものすごいおしゃべりな人だったんです。静かだと気を遣ったりもする人だったから、作業中もみんなに話しかけちゃうんです。それが理由で別部屋に移動したみたいですよ(笑)。
大部屋ではアシスタントが騒がしくしていたので、F先生こそ個室が欲しかったんじゃないですかね。F先生は寡黙な人だったからね。コンビを解消してから、初めて自分の部屋を持ったってF先生は喜んでましたよ」
『バケルくん』終了の裏にはえびはら先生の“クレーム”が
当時、藤本先生が『バケルくん』という漫画を執筆していたが、えびはら先生の“文句”によって連載が終了したと裏話もこぼした。
「『バケルくん』って漫画を描いていたときに、僕が『バケルくんは靴を履いていたのに、変身するとなんで裸足になるんですか』とかいろいろと文句を言っていたら、段々と書きづらくなっちゃったみたいで、それで終わっちゃったんですよ(笑)。
当時はSNSもなかったので、僕が1番身近で問いを投げかける人だったんです。『ドラえもんは何で裸足で歩いているのに、部屋を歩いても汚れないんですか?』とかね。方倉(陽二=当時のアシスタント)さんが『ドラえもんは3ミリ浮いてんだよ』とかわけ分からないことを言ってね。『だったら、なんで足跡つくんだよ』って(笑)」
藤子不二雄のもとで、さまざまなことを学んだえびはら先生だったが、漫画家として独り立ちをするために、わずか2年で藤子スタジオを去った。
「先生のスタジオは待遇面がすごく良かったんです。『このまま甘えていたら漫画家になれないぞ』と思ったことも辞めるきっかけでした。それに忙しすぎて、自分の漫画を描く時間がないので、辞めてから描くしかないなって。結局、辞めたら辞めたで遊んじゃったんだけどね(笑)。貯金があるうちは大丈夫と思いながらも、だんだんと『まずいな』と思っていたとき、藤子先生から『ちゃんとやってる?』って連絡がきたんですよ」
藤子スタジオを去ることになったが、デビューのきっかけは藤子不二雄が与えてくれたと感謝の思いを語る。
「藤子先生のもとにいたアシスタントみんなで雑誌を作るから、そこで描かないかという誘いでした。20人ぐらいで漫画を描いて『Q』っていう同人誌を作ったんです。それを先生がわざわざ印刷してくれて、全部の出版社に送ってくれていたんです。それで僕の漫画を見てくれた学研(学習研究社)の編集部から連絡をもらったんです。
当時、先生のもとからちゃんとした漫画家が出たことがなかったんですよね。忙しすぎたというのもあるのですが、先生はちょっと悩んでいたみたいなんです。でも、『Q』をきっかけに僕も含めて何人かデビューすることができましたね」
連載が決まった作品はのちのえびはら先生の代名詞ともなる『まいっちんぐマチコ先生』だった。藤子不二雄の作品とはかけ離れた作風だったが、『マチコ先生』の誕生には藤子不二雄の存在が大きく関係していた。
「女の先生の漫画を描こうと思っていたんです。ある日、漫画を編集部に持ち込んだととき、『ドラえもんみたいな漫画を描いてもダメだよ。先生がやらないものをやりなさい』と言われたことがあったんです。そのときに、先生のまねをしていたらダメだと思って、先生がやらない分野を描こうと考えたんです。お色気モノがはやっていたので、チラリズムを意識しましたね。当時は絵を勉強するためにデザイン学校に通っていて、女の人の裸を描くことも多くて、それが得意だったんですよ。それに服を着てないから描くのが楽。『オバケのQ太郎』と一緒です。すぐ描き終わるんですよ(笑)」
1982年に「少年チャレンジ」での連載が決まったが、両先生に報告すると「よかったね」と声を掛けてもらえたという。えびはら先生はそのときのことを「社交辞令的に喜んでくれただけなんだろうね」と笑いながら振り返った。
藤子スタジオの在籍期間はわずか2年。短い期間でありながらも濃厚な期間だった。藤子不二雄という偉大な存在はえびはら先生のその後の人生に大きく影響を与えたのだった。