お色気描写で一世風靡 あまりの過激さに“不買運動”も…『マチコ先生』生んだえびはら武司の素顔

「いや~ん、まいっちんぐ!」のせりふで一世を風靡(ふうび)した漫画『まいっちんぐマチコ先生』は、チラリズムの数々で1980年代の少年たちの心をくすぐった。同作を描いたえびはら武司先生(69)は、藤子スタジオ出身の漫画家。『ドラえもん』などとはかけ離れた世界観の漫画ともいえるが、どのような道をたどり『マチコ先生』を生み出したのだろうか。

『まいっちんぐマチコ先生』の作者・えびはら武司先生【写真:ENCOUNT編集部】
『まいっちんぐマチコ先生』の作者・えびはら武司先生【写真:ENCOUNT編集部】

漫画家のために藤子スタジオの門をたたいた

「いや~ん、まいっちんぐ!」のせりふで一世を風靡(ふうび)した漫画『まいっちんぐマチコ先生』は、チラリズムの数々で1980年代の少年たちの心をくすぐった。同作を描いたえびはら武司先生(69)は、藤子スタジオ出身の漫画家。『ドラえもん』などとはかけ離れた世界観の漫画ともいえるが、どのような道をたどり『マチコ先生』を生み出したのだろうか。

 幼少期の頃は、内向的で部屋にこもって絵を描くことが好きだったとえびはら先生は明かす。楽しみは月に数冊買ってもらえた漫画本。「何度も読み返した後に、もうやることがなかったので、まねして描いて遊ぶという模写みたいなことをしていましたね」。

 初めて読んだ漫画は『月光仮面』。その後『鉄腕アトム』や『鉄人28号』で漫画の魅力に引き込まれていった。

「もっとかっこいいロボットを自分で作りたいといろいろ描いていましたね。幼稚園や小学校で友達に見せたりすると『かっこいい』とか言ってもらえてね。それでうれしくなっちゃって、『もっと描くぞ!』って」

 漫画家という職業を意識するようになったのは小学生の頃のことだった。

「当時は漫画家という職業の認知度が低かったんですよ。漫画家で食べていくのは難しい時代だったのでみんなに反対されました。漫画本もほとんどなかった時代でしたよね。親にも言えず、1人でこっそりと描いて、親が部屋に来ると隠したりしてましたね」

 漫画家への憧れを抱き続けたえびはら先生は、高校卒業後に藤子スタジオの門をたたいた。

「藤子先生の作品が大好きだったんです。アシスタントをやろうとなったときに、『どうせならいい先生のとこに入りたい』と思ったんですよね。高校を卒業して、大学行くときに名門校を受験するみたいなノリでしたね」

『マチコ先生』にたどり着いた理由は「それでしか先生を超えられない」

 当時から売れっ子だった藤子不二雄。アシスタントになるためには大変な苦労があったのではないかと考えるのが普通だが、実際はそういうことでもなかった。

「そんなに苦労なく入っちゃいましたね(笑)。ちょうど人が辞めてしまうタイミングと重なって運が良かったんです。どんなに絵の才能があっても、人が足りているときは雇ってもらえないですからね。初めて電話をしたときも藤本(弘=藤子・F・不二雄)先生が出てくれたんです。ボソボソとしゃべる愛想が良くないおじさんが電話に出たなと思ったら最後に『藤本です』って言われてびっくりでしたよ(笑)」

 当時は藤子スタジオでアシスタントをしながら、学費を自分で払いながら専門学校に通っていた。

 藤子スタジオでの初めての仕事は『ジャングル黒べえ』だった。その後に『ドラえもん』などを描くようになったという。仕事には何一つ不満はなかったというが、漫画家になりたいという明確な目標を持っていたえびはら先生は「このままだとまずい」と思い、わずか2年で藤子スタジオを辞めて、独り立ちを目指した。

「先生に『3年はいてくれ』って言われたね(笑)。でも、1日も早くデビューしたかったから、二十歳になったときに辞めました。先生のとこにいると忙しすぎて自分の漫画を描く時間がないんですよ。辞めてから描くしかないと思って辞めたんですけど、結局、毎日遊んじゃってました(笑)。貯金があるうちは大丈夫と思いながらも、だんだんと『まずいな』と思っていたとき、藤子先生から『ちゃんとやってる?』って連絡がきたんです。アシスタント全員で漫画本を作るから、そこで描かないかというお誘いでした。

 20人ぐらいで漫画を描いて『Q』という同人誌を作ったんです。そこに描いた作品を先生がわざわざ印刷して、全部の出版社に送ってくれていたんです。それで、僕の漫画を見てくれた学研(学習研究社)の編集部から連絡がきました。当時は先生のスタジオからちゃんとした漫画家が出たことがなくて、先生もちょっと悩んでいたみたいで、それもあって送ってくれていたんでしょうね」

 初連載が後の代表作となる『まいっちんぐマチコ先生』だった。藤子不二雄の作風とは真逆ともいえる作風だったが、この作品に至るまでは藤子不二雄の弟子ならではの考えがあった。

「藤子先生のところにいたころから、マチコ先生っぽい絵は描いていたんです。僕にはバックボーンがあまりないので、SFを描こうにも分からないことが多かったんです。学校が舞台の漫画なら背景も簡単だし、知っているので描けるかなって。当時『金八先生』とかがはやっていたけど、女の先生はあまりなかったんです。それで、女の先生で熱血モノを描こうと思ってね。だけど、『熱血モノってなんだ?』ってなっちゃって、気付いたらお色気になってたね(笑)。当時は絵を勉強するためにデザイン学校に通っていて、女の人の裸を描くことも多くて、それが得意だったんですよ。それに服を着てないから描くのが楽だったんです。

 もう一つの理由は、それでしか先生を超えられないと思ったことですね。漫画を持ち込んだときに編集の人に『ドラえもんみたいな漫画を描いてもダメだよ。先生がやらないものをやりなさい』と言われたことがあったんです。先生のまねをしていてもダメだと思って、先生がやらない分野を描こうと考えたんです。『どうしたら売れるかな?』とか考えたときに、当時はお色気モノがはやっていので、チラリズムを意識しましたね」

70歳での“引退興行”の考えを明かしたえびはら武司先生【写真:ENCOUNT編集部】
70歳での“引退興行”の考えを明かしたえびはら武司先生【写真:ENCOUNT編集部】

70歳の節目の年に考える「引退興行」

 1980年に「少年チャレンジ」で連載を開始すると、たちまち人気に火がついた。約半年ほどでアニメ化が決まり、81年10月からは実際に放送がスタートされた。当時の記憶は鮮明に残っている。

「学研だから連載できたんだと思います。雑誌を売り上げるために必死な時代だったんでしょうね。編集長からは『マチコが人気出なかったら、僕は会社を辞める』とまで言ってもらえました。毎回巻頭カラーで扱ってくれたり、ありがたかったですね。

 アニメ化してほしいとは思っていたけど、エロ路線すぎるので『これ、無理だろ?』と話したりもしていたので、連絡をもらったときはうれしかったですよ。放送時間はご飯休憩の時間にして、アシスタントみんなで観ていましたね」

 漫画は全8巻で累計280万部超え、アニメも丸2年続くなど大ヒット作となった。一方で午後7時30分という家族団らんの時間帯に放送されていたアニメということもあり、PTAなど保護者からのクレームも多かったと明かす。

「そりゃ夜の7時半にあんなんやってたら文句言うよね。僕だって思うよ(笑)。でもそれが逆に今でいうバズるきっかけになってくれたんだと思います。PTAで“マチコ先生に抗議する会”とか、“学研不買運動”とか始まって騒がれたんで、『どんな漫画なんだろう?』ってのがちょっとはあったのかもしれないね。当時にネットがあったらどうなってたんだろうと考えたりはしますね」

 82年に連載雑誌「少年チャレンジ」が休刊となり、同社の別誌「アニメディア」「中2コース」に連載の場を移したが、ほどなくして連載終了。「より過激にしてくれみたいに言われたこともありましたね。ただ、僕自身もパターンが毎回一緒で飽きてしまったんですよね」と当時の心境を振り返った。

 以降、大きな連載作はなかったが、97年に「コミックGON!」で15年ぶりに『マチコ先生』を復活させた。「『コミックGON!』の編集長がやたらマチコファンだったんです。『平成版を描いてください』って熱弁されて、その熱意に負けたね」。

 なにかとコンプラというワードが飛び交う現代。『マチコ先生』の復活についても語った。

「昔のままではもうきついかもしれないね。今でもたまに青年誌とかでは描いたりしているんだけどね。頼みに来てくれた人の熱意によっては新しいものを描くこともあるかもしれないね」

『鉄人28号』に童心をくすぐられ、目指した漫画の道。紆余曲折の末にたどりついたお色気というジャンルだったが、「マチコ先生みたいな作品が本当は、やりたかったのかもしれないね」と懐かしんだ。

「今はもう漫画を辞めたいぐらいですよ」と笑いながらも、「今年映画を作る予定なんです」と今後についても明かした。

「その映画が僕の引退興行になる予定です。漫画家が引退ってあまり明言しないんですけど、僕も70歳になるので、引退と宣言しておきます。また復帰するかもしれないけどね(笑)」

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