【プロレスこの一年 #1】「猪木VSアリ」異種格闘技路線が世界的話題となったプロレス界の1976年
鶴田、天龍、外国人選手の1976年
ウェップナーをリングアウトで破ったアンドレは10月7日にプロレスVSプロレスの「格闘技世界一決定戦」で猪木と対戦。勝った猪木は12月9日、ルスカとの再戦に臨み、レフェリーストップ勝ちをおさめた。3日後にはパキスタンに遠征し、現地の英雄アクラム・ペールワンと異種格闘技戦でぶつかった。カラチのナショナルスタジアムに詰めかけた大観衆の前で完全アウェーながらも、猪木はペールワンの左肩を脱臼させてのドクターストップで勝利。1月のルスカ挑戦表明から12月のペールワンまで、76年はアリ戦の借金という問題を抱えながらも、異種格闘技路線が世界的話題となる一年だった。
ジャイアント馬場率いるライバル・全日本プロレスでは、デビュー3年で当時25歳のジャンボ鶴田「十番勝負」が3月にスタート。28日には国際プロレスとの「全軍対抗戦」が実現し、鶴田は国際のエース、ラッシャー木村と十番勝負第2戦として対戦、ダブルフォールで引き分けた。この試合はプロレス大賞の年間最高試合賞に選出されている。
のちに鶴田とともに全日本を支えることとなる天龍源一郎が大相撲からプロレスに転向したのもこの年だった。天龍は6月11日、蔵前国技館でのNWA世界ヘビー級選手権試合、テリー・ファンクVS鶴田を観戦。大相撲は同年秋場所で廃業し、10月15日に天龍の全日本入団がアナウンスされた。月末にはアメリカ海外修行に出発、プロレスデビューは11月13日(現地時間)、テッド・デビアスとのシングルマッチだった。帰国後の12月5日には日大講堂にて断髪式。なお、この日は新日本との興行戦争にもなっていた。新日本が猪木VSルスカの再戦なら、全日本は馬場&鶴田組VS大木金太郎&キム・ドク組のインターナショナルタッグ選手権試合、ビル・ロビンソンVSアブドーラ・ザ・ブッチャーをぶつけてきた。隅田川を挟む同時間興行は集客で全日本が勝利する形となった。
ブッチャーと一騎打ちをおこなったロビンソンは前年末に新日本へ来日していたのだが、7月より日本での戦場を全日本に移した。17日には鶴田と60分フルタイムに5分間延長の末ドロー、24日には蔵前で馬場の保持するPWFヘビー級王座に挑戦するも王座奪取はならなかった。前年12月に猪木が引き分けたロビンソンからの勝利により、馬場は“記録“で猪木を上回ることをアピールしてみせたのである。
ロビンソン移籍後の8月下旬、NWAが新日本に対し「NWF世界ヘビー級選手権」から「世界」の文字を削除するよう勧告。以後、同王座は「NWFヘビー級選手権」が正式名称となった。これはNWAに加盟できなかった新日本にとって大きな屈辱でもある。大物外国人レスラーを招聘するには当時、NWAの力が不可欠だったからだ。NWFから世界の文字を剥ぎ取られた猪木&新間はこれ以降、よりいっそうNWA加盟の全日本へライバル心を燃やすこととなる。反骨精神の象徴が、異種格闘技路線でもあったのだ。ちなみにこの年の4月28日、のちに初代タイガーマスクとなる佐山聡がデビューしている。当時の佐山は、18歳。メキシコ、イギリス遠征を経てタイガーマスクに変身したのは、初リングから5年後、1981年のこととなる。