西川のりおをハイヒールで蹴り飛ばす 長野智子が振り返る『ひょうきん族』とフジテレビ時代「最高だった」

4月から文化放送の情報ワイド番組『長野智子アップデート』(月~金曜日午後3時30分~5時00分 生放送)のパーソナリティーを務めている長野智子(61)。今では報道キャスターのイメージが強いが、フジテレビ時代は『オレたちひょうきん族』などバラエティー番組で人気になった。

フジテレビには5年間務めた【写真:山田隼平】
フジテレビには5年間務めた【写真:山田隼平】

長野智子「女子アナがタレントを蹴るなんて、とんでもないという時代」

 4月から文化放送の情報ワイド番組『長野智子アップデート』(月~金曜日午後3時30分~5時00分 生放送)のパーソナリティーを務めている長野智子(61)。今では報道キャスターのイメージが強いが、フジテレビ時代は『オレたちひょうきん族』などバラエティー番組で人気になった。(取材・文=平辻哲也)

 フジテレビ出身だが、在職期間は1985~90年とわずか5年。『オレたちひょうきん族』では86年9月から89年までTBS系の人気音楽番組『ザ・ベストテン』のパロディーコーナーだった『ひょうきんベストテン』で島田紳助さんと女子アナ3代目の司会者を務めた。

「私がニュース番組をやっているから、みなさん遠慮がちに『ひょうきん族』のことを聞かれるんですが、私にとっては、黒歴史じゃないんですよ。楽しかった思い出しかないですね」と笑う。

 きっかけは朝のニュース番組だった。

「『踊る天気予報』というコーナーがあって、踊りながら天気予報を読んでいたんです。それを見た横澤彪プロデューサー(故人)が面白がって、使いたいと言ってくださったそうです。当時はニュースをやりたい気持ちはあったけど、社員だったし、上司の皆さんの期待に応えたいという気持ちで一生懸命でした」と振り返る。

 1980年代のフジテレビは絶頂期。「楽しくなければテレビじゃない」とのスローガンを掲げ、ニュース読みが主な仕事だった女子アナを、バラエティー番組に起用するなど冒険心あふれる番組作りをしていた。

「本番中にお尻を触ってきた西川のりおさんをハイヒールで蹴り飛ばしたこともありました。女性のアナウンサーがキャーというのをお茶の間で楽しむみたいな昭和の雰囲気があったんですけど、私はそういうキャラじゃないと山田邦子さんが思ったらしく、耳元で『蹴っちゃいなよ』とささやいたんです。女子アナがタレントを蹴るなんて、とんでもないという時代でしたが、思いっきり蹴り飛ばしました(笑)。のりおさんは『わー』と言いながら大げさにぐるぐる回って……。それで私の名前が知られるようになったんです」

 朝のニュース番組との掛け持ちだったので、本番後は風呂に入って、仮眠することもしばしば。

「西川のりおさんが先に楽屋裏にある大風呂に入っていると、体中、青や白に塗っているから、お風呂場の水が青かったり、白かったりするんです。仕方ないので、シャワーだけで浴びて出てきたりしました」

フジテレビ時代は『オレたちひょうきん族』などに出演【写真:山田隼平】
フジテレビ時代は『オレたちひょうきん族』などに出演【写真:山田隼平】

 出演者と飲みに行く機会も多かったという。

「深夜1時、2時に終わってから、紳助さんら出演者全員でウガンダさんの六本木の店に行きました。明るくなるまで飲んで、帰る。ホント、元気でしたよね」

 しかし、90年に商社マンの男性との結婚を機に退職する。

「すごい働いていたので、仕事をやめないと、結婚生活が持たないと思っていたんですね。だって、『ひょうきん族』もやっていたし、ドラマでは役者もやらされたり、各特番の司会です。ほとんど家に帰らないで渋谷スタジオで寝ていましたから。今では、ちょっと考えられない昭和の働き方でしたよ。でも、楽しかったんです」

 フジテレビ時代は最高の思い出だという。

「すごい元気があって、制作者はいかに視聴者を裏切るかを考えていた。本当に何が起こるか分からない楽しさがありました。視聴率は三冠、映画を出せば、当たる。『子猫物語』(1986年)のチャトランも人気でした。一番いい時代を過ごせたと思います」と懐かしんだ。

■長野智子(ながの・ともこ)1962年12月24日、米ニュージャージー州出身。O型。上智大学卒業後、フジテレビアナウンサー(1985~90年)を経て、ニューヨーク大学でメディア環境学修士号を取得。『ザ・スクープ』や『サンデーステーション』などのキャスターを務めたほか、現在は文化放送『長野智子アップデート』パーソナリティー、国連UNHCR協会理事として活躍中。近著に『データが導く「失われた時代」からの脱出』(河出書房新社)がある。

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