波乱のスターダム、大改革を断行した岡田太郎とは何者なのか アニメ業界出身の36歳若社長

岡田太郎・36歳。プロレス業界的には、昨年末に突如現れた若き経営者だ。スターダムの運営母体である株式会社ブシロードファイトの社長に2023年12月に就任、けが人が相次ぎ興行上の問題もあったスターダムのかじ取りを任された彼は、どのような人物なのか。そして、今年2月の創業者・ロッシー小川の電撃解任。このとき、スターダムでは何が起こっていたのか。

昨年11月末に重責を担った岡田太郎社長【写真提供:スターダム】
昨年11月末に重責を担った岡田太郎社長【写真提供:スターダム】

レッスルマニアの「ロックvsホーガン」でプロレスにはまる

 岡田太郎・36歳。プロレス業界的には、昨年末に突如現れた若き経営者だ。スターダムの運営母体である株式会社ブシロードファイトの社長に2023年12月に就任、けが人が相次ぎ興行上の問題もあったスターダムのかじ取りを任された彼は、どのような人物なのか。そして、今年2月の創業者・ロッシー小川の電撃解任。このとき、スターダムでは何が起こっていたのか。(取材・文=橋場了吾)

 プロレスファンが気にするところ、それは新しい登場人物が「プロレスを愛しているか」。実は岡田は学生時代からプロレスが好きだった。

「初めてプロレスを見たのは小学生のときだと記憶していますが、2000年前後のプロレスとK-1をよく見ていて、“リング”を意識していたと思います。本格的にはまったのは、2002年のレッスルマニア(現WWE・当時WWFの最大の祭典)ですね。ロックvs“ハリウッド”ハルク・ホーガンを見て、プロレスの世界の規模感が凄いなと。それからはアメリカのプロレスも日本のプロレスもずっと見てきました」

 その岡田がブシロードに入社したきっかけはどのようなものだったのか。

「(大学卒業後に)新卒で入ったのはアニメイトです。アニメのライブに興味があって、アニメイトのイベントを担当している部署に入りました。ライブステージから店舗でのイベントまで、いろいろなイベントのマネジメントをしていて、その後ほかの会社も少し経験してブシロードに中途で入りました。25歳の頃ですね。アニメもプロレスも興味があったので、2012年に新日本プロレスのトレーディングカードが発売になったのを知って、面白そうな会社だなと思って(中途採用に)応募しました」

 最初は音楽部門である「ブシロードミュージック」に配属された。岡田は声優ユニット・ミルキィホームズのプロデュースを主に担当し、スターダムの入場曲のCDにも関わっていた。22年、劇団飛行船に取締役として着任し、翌23年5月に社長に就任。そしてその半年ちょっと後の12月、ブシロードファイトの社長となった。

「実は中途入社の面談のときに、木谷(高明)社長(株式会社ブシロード代表取締役社長兼CEO)には『いつかプロレスの仕事もしたいです』という話はしていました。当時は『今は声優の方が必要だから』と言われて、面談のたびに『2年後かな』という話が出て、社交辞令になっていたんですが(笑)。(スターダムのアイコン・岩谷麻優の自伝映画である)『家出レスラー』の制作プロデューサーも担当していたので、スターダムのことは気になっていました。急に売り上げが上がって、ちょっと無理が出てくる……仕事としての抜け漏れやトラブルが起こるのではという危惧はあって、ぎりぎりのところで頑張っているという話は聞いていたので、ブシロードファイトにもブシロード本体から人材を送り込まないといけないという状況ではありました。売り上げの増加に伴う組織改編も必要でしたし」

「あの件」について神妙な顔つきで語った【写真:橋場了吾】
「あの件」について神妙な顔つきで語った【写真:橋場了吾】

思っていたより複雑で深刻だった現場の状況

 そんな中、岡田はスターダムのかじ取りを任されることになる。

「時系列的にいうと、まず牛久(※)がありました。ついに運営上のトラブルが出てしまったなと。選手の欠場のようなものではなく、お客さんに直接的にご迷惑をかけてしまう事態になってしまって。それで翌々日でしたかね、自分の所属するライブエンタメ部門長から『近々ブシロードファイトに行ってもらう。年明けに社長の交代もあり得る』という話がありました。で、今の仕事の整理もしていかないとと思っていたら、翌日木谷さんから『2週間後に社長交代を発表するから』と……。逆に日にちが短くなったことで、気持ちの切り替えができたのかもしれないですね。それで18日に大阪大会に行って、選手の皆さんやスタッフの皆さんに12月から社長になることを伝えました。めちゃくちゃ緊張しましたね。顔を知っている方も少しはいましたが、多くの方にとっては見知らぬ人が社長になるわけですから」
※2023年11月5日に開催された牛久運動公園体育館大会において、前日に開始時間が2時間半後倒しされることが発表された一件。

 岡田が公の場であいさつしたのは、同28日の後楽園ホール大会。この日もその緊張具合は見て取れた。

「運営が不手際をしてしまって苦言を呈されている団体のトップとして、後楽園ホールのお客さんの前に出たので……『やるぞ』という気持ちの高ぶりと、緊張と恐怖ですね。前田(日明)さんじゃないですけど『選ばれし者の恍惚と不安、ふたつ我にあり』の状態ですよ(笑)。でもこの状況で社長を任されるというありがたい気持ちと、スターダムを一番のプロレス団体にしたいという気持ちもありました」

 実際、岡田が見たスターダムの状況はどのようなものだったのか。

「思っていたよりも複雑・深刻でしたね。売り上げを考えると、組織が不安定な感じを受けました。売り上げ1億2億を目指しているベンチャー企業のように、全部手弁当で何とかやっているような感じで、若いスタッフも多かったので、組織作りには時間がかかるだろうなと思いましたが、時間とお金をかければ1年で何とかなるというのが経営的な見方ですね。11月・12月に全選手と面談をしたんですが、その中でわかってきたのは、プロレスに関することが選手や小川さんに任せっきりになっていたことでした。でもちょこちょこ重要なところに口を出すみたいな。それが選手間の不満や文句につながっていたんです。そして数人の選手から、退団の意思や小川さんがスターダムを辞めて新しい団体を作ろうとしていることがわかって。

 ある選手からは『小川さんが辞めたらついていきます。』という話があり、『じゃあ、辞めるのを辞めたら辞めないね!!』と考え、まずは(小川さんと)一緒にやっていく方向を模索しました。ただ小川さんからは初めてお会いしたときに『辞めます』とお話があったんです。そのときは『体力の問題』と。そして今年1月に、小川さんが独立する、多数の選手に声を掛けているという話が聞こえてきて。これで分裂してしまうと上場企業の子会社としては、不安定事業になってしまう。そうなれば事業縮小やグループからの分離もあり得る。スターダムのために仕事をしてもらいお金を払う契約をしている間にダメージを与えるようなことをしていたので、この連鎖を止めるしかなかったので、契約解除という判断になりました」

(敬称略、26日掲載の後編へ続く)

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