八ヶ岳で農園経営、日本でM&A会社を創業…異色キャリアの55歳・加藤ヒロの激動人生

5月1日に第4弾アルバム『スモーキーなスコッチと満月と』をリリースする加藤ヒロ(55)は山梨・八ヶ岳の南麓で無農薬小麦を栽培し、シティ・ポップスを歌う異色のシンガー・ソングライターだ。日米公認会計士の資格を持ち、約30年間M&Aアドバイザーとして活動し、42歳でミュージシャンの道へ。激動すぎる人生を紐解いた。

インタビューに応じた加藤ヒロ【写真:ENCOUNT編集部】
インタビューに応じた加藤ヒロ【写真:ENCOUNT編集部】

42歳でミュージシャンになった加藤ヒロとは何者なのか

 5月1日に第4弾アルバム『スモーキーなスコッチと満月と』をリリースする加藤ヒロ(55)は山梨・八ヶ岳の南麓で無農薬小麦を栽培し、シティ・ポップスを歌う異色のシンガー・ソングライターだ。日米公認会計士の資格を持ち、約30年間M&Aアドバイザーとして活動し、42歳でミュージシャンの道へ。激動すぎる人生を紐解いた。(取材・文=平辻哲也)

 大瀧詠一、山下達郎、杉山清貴、稲垣潤一、村田和人……。10~20代に聴いたシティ・ポップスが好きで、42歳で再びギターを持ち、音楽活動を始めた加藤。21年からはもう一つの夢だった農業に着手。自身が運営する「チェリーズガーデン八ヶ岳ファーム」では約2400坪の農地で無農薬小麦を作っている。

「全部一人でやっていて、商売としては正直難しいです。ただ、自然栽培の野菜とかそういうものを求めている少数の方のためになるなら、と思っています。曲の制作は八ヶ岳の倉庫の屋根裏部屋で作業をしていますが、夏の日中は35度になります。涼しい朝方にやるんですけど、窓の外に青空が広がっているのを見ると、畑に飛び出したくて仕方ない。だから、音楽になかなか集中できないんです(笑)。曲のタネは八ヶ岳で拾ってきているんですが、最終的な曲作りは東京の事務所でこもることが多いです」

 最新アルバム『スモーキーなスコッチと満月と』も農作物を作るように、丹精込めて、2年半がかりで熟成させた。サウンドもジャケットも80年代のシティ・ポップス調。ゲストミュージシャンには、dedachi kenta のサウンドプロデュースも務めるKOSEN を筆頭に、Turkey Jerky、真城めぐみ(ヒックスヴィル)、竹上良成、外園一馬、海老原諒らシティ・ポップスサウンドに精通したメンバーを迎えた。

「今回のアルバムはこれまでの集大成。それはゲスト・ミュージシャンが素晴らしいので、できたことだと思っています」

 音楽的なルーツは中学時代に遡る。

「最初はビートルズです。高校でシティ・ポップスに出会って、稲垣潤一さん、山下達郎さん、村田和人さんにハマりました。80年代は景気もよく、遊びやオシャレにお金を使っていた時代。そのせいか曲も今にはないキラキラ感がありましたね」

 大好きな音楽を職業にするまでは紆余曲折があった。小学校の卒業アルバムの将来の夢はプロ野球選手、プロスキーヤー。歌手、ボクサーになりたいと思ったこともあった。

「子どもの頃から目移りするタイプだったかもしれないです」

 高校時代は甲子園大会の常連校、広島商業から関西大学商学部に進学。大学4年時に公認会計士の資格を取り、卒業後ニューヨークへ。6年間、邦人企業向けの監査を行う外資系監査法人で働き、帰国後はM&Aアドバイザーを務め、2004 年には独立系M&A アドバイザリー会社であるGCA 株式会社の創業メンバーとして参画した。

 これまでのキャリアは会計士、M&Aアドバイザー、CFO(最高財務責任者)、会社経営者、ミュージシャン、農業従事者。一見、バラバラにも見える。

「僕の中では一貫していたんです。普通のサラリーマンにはなりたくない、一人の力でどこまでできるか挑戦したいという思いがありました。言ってみれば、のれんを出さない名店を目指していたんです。店で売るものは変わっても、生き方自体は変えていないつもりなんです」

 その輝かしいキャリアにも失敗と挫折が度々あった。

「最初の挫折は広島商時代の野球です。僕の1学年上は5年連続で夏の甲子園に出場していますし、2つ下は全国優勝しました。僕の学年だけが甲子園行けなかったんです。僕は練習を真面目にやり過ぎた分、体と心が持たなくなってしまって、1年の冬に退部してしまった。野球を辞めた悔しさを学業にぶつけました。大学4年の時には公認会計士の資格が取れたものの、親からの仕送りが止まったこともあり、会計士の専門学校で講師をしていました。その関係で就職が1年遅れてしまったんです。それなら、いっそのこと他人とは違う道に行こうと。それが、海外だったんです」

 運良く就職できたというニューヨークでは6年間、邦人企業向けの会計士として活動した。

「日本法人の帳簿を締めるのが仕事だったので、英語が話せない僕がいきなり働くことができたんです。日本を出る時にバブル時代の遺産でかなりの借金をしてたんですけど、1ドル80円まで円高が進んだから返済が大変でした。最初は早く日本に帰りたかった。3年を過ぎた頃には永住したいと思うようになったのですが、当時のクリントン政権が移民局のリストラをしたため、それまで2年で取れたグリーンカードが3年かかると言われ、帰国せざるを得なかったんです」

 日本では系列のM&A会社に就職。当初は2年後には再びニューヨークに戻るつもりだったが、金融環境の変化に伴い、断念。M&Aのアドバイザー業務をしながら、2004年に仲間4人と独立系M&Aアドバイザリー会社「GCA 株式会社」を立ち上げ、大型の企業買収を手掛けた。

「僕以外の3人がすごい人だったで、運が良かった。会社は上場し、拠点も世界中に広がり順調に成長していきました。経営の傍らアドバイザーの仕事もしましたが、M&A業務の中身が変わってきて、僕がやりたい仕事ではなくなってしまった。そんな時にもう1回好きだった音楽を始めたいと思ったんです」

 それが2011年の出来事だった。ギターレッスンを受ける中、2、3年後には自分で作詞作曲も手掛けるように。ギターの先生からアルバムを出すことを勧められ、インディーズでデビュー。本腰を入れるために長年務めていた会社も21年に退社した。

二足のわらじで八ヶ岳と東京を行き来する生活

 こうして、田舎での農業、シティ・ポップスのシンガ・ソングライターの二足のわらじで、八ヶ岳と東京を行き来する。

「今は恵まれていると思っています。僕はもともとプライドの高い人間だったんです。若い頃はダメな自分を見せることができなかった。音楽をやるようになってからは、ダメなものはダメだと分かり、飾ることをやめました。等身大の自分をぶつけて、歌詞に込めています」

 そうして生まれた曲が人生の応援歌にもなり、同年代のシティ・ポップスファンの心をつかんだ。本気でセカンドライフを考える50代の中には、生き方に憧れる人もいるだろう。

「僕はできる時に精一杯やっておくという考えです。農業をやっていると、畑で出来たものを食べれば、生きていけると思える。日本の食料自給率は低いですが、だからこそ農地に価値がある。農業をやりたい人がもっと増えてもいい。そういう人が出てきた時に、『一緒にやろうよ』といえるインフラを持っておきたいとは思っています」

 今後の夢は70歳になってもライブをやること。5月27日にはニューアルバムのリリースを記念して、東京・目黒の「ブルースアレイ ジャパン」でワンマンライブも開催する。

■加藤ヒロ(かとう・ひろ)1969年2月18日、神戸生まれ。関西大学商学部4年時に公認会計士第二次試験に合格。大学卒業後に単身渡米し、会計士に。1998年に帰国後、M&Aのアドバイザーとして活躍し、2004年には独立系M&Aアドバイザリー会社「GCA 株式会社」の創業メンバーとして参画。11年に子どもの頃に憧れたシンガー・ソングライターとしての夢を追い求めるため再びギターを手に取り、15年頃から音楽活動を本格的に開始。今年の5月には自身4枚目のフルアルバム『スモーキーなスコッチと満月と』を全国リリース。愛知のZIP-FM『MIDNIGHT RUNWAY』にレギュラー出演中。

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