パニック障害だった大江裕、師匠・北島三郎の「俺が治してやる」で再起…コロナ禍には40kg減量
デビュー15周年を迎えた大江裕(34)が、本格演歌で新境地を開いている。これまでは元気な応援歌が多かったが、新曲『高山の女(ひと)よ』は旅先での男の悲恋を歌っている。恩師・北島三郎(87)の北島音楽事務所から巣立って1年。師弟関係に変わりはないが、大江は独自の世界を築き上げようとしている。新たな1歩を踏み出した思いを聞いた。
巣立って1年も「北島演歌を継承します」
デビュー15周年を迎えた大江裕(34)が、本格演歌で新境地を開いている。これまでは元気な応援歌が多かったが、新曲『高山の女(ひと)よ』は旅先での男の悲恋を歌っている。恩師・北島三郎(87)の北島音楽事務所から巣立って1年。師弟関係に変わりはないが、大江は独自の世界を築き上げようとしている。新たな1歩を踏み出した思いを聞いた。(取材・文=笹森文彦)
新曲『高山の女よ』(作詞・さくらちさと、作曲・岡千秋)は、岐阜・高山市で開催されている高山祭をテーマに、女性との出会いと別れを切なく描いている。高山祭は、祇園祭(京都)、秩父夜祭(埼玉)と並ぶ日本三大曳山(ひきやま)祭。日本三大美祭とも言われる。曳山とは豪華な装飾が施された山車(だし)のこと。その華やかさとは対照的なしっとりとした楽曲になっている。
同じ作家による前作『城崎しぐれ月』も、有馬、湯村とともに兵庫を代表する温泉地の城崎を舞台に、恋しい人を同地で探す男心をしみじみと歌った。
「今までは、『頑張るぞ』『乗り越えるぞ』という応援歌や元気な歌が多かったですが、今は、スタッフの皆さんの意見を聞きながら『新たな大江裕を見ていただこう』『お届けしよう』と思っています。ご当地ソングは歌ったことがなかったので、旅行する気持ちで歌えるというのが、素晴らしいなと感じています」
『城崎しぐれ月』はデビュー15周年記念曲の第2弾。『高山の女よ』は第3弾となる。第1弾はというと、23年2月に発表した『時代の海』。恩師である北島が「原譲二」のペンネームで、作詞・作曲した。
大江は2023年春に、原田悠里、北山たけし、山口ひろみとともに北島音楽事務所を円満に卒業した。大江は、所属レコード会社日本クラウンの関連会社クラウンミュージックに移籍。4人が離れた理由は、北島が22年に芸道60周年の節目を迎えたことだった。そして、年齢的なことを踏まえ、北島が成長した4人が『親元』を離れる良いタイミングと判断。4人へのバックアップは今後も続けるとした。
当時、事務所の今後に関する話を北島先生から言われた時には衝撃だった。
「昨年の初めに『もう一人前だ。もう1人で歩いていけるんじゃないか。今までは北島三郎の弟子・大江裕だったけど、これからは大江裕の師匠・北島三郎という形で、後ろでちゃんと支えてやるから、歩いていけ』って。尊敬する方のもとで歌手にさせていただいて、まだまだ学ばなければならないことがたくさんありますので衝撃でした。でも、よく考えてみると、いつまでも親のもとにいちゃ、ダメなんですよね。子供は。やはり、外に出て初めて親のありがたさが分かるんですよね」
デビュー15周年の年だったので、移籍前の記念曲第1弾『時代の海』は、北島が思いを込めて、大江に書き下ろした。歌い出しは「親という名の お守り抱いて 人は世間に 船出する」。まさに北島からの、送る言葉だった。
「親から独立していけよ、時代の海を、人生海峡を迷わず行けよ、という気持ちを、僕に歌わせているんですね。(卒業の発表前に)この曲をいただいた時、何か意味があるのかな、という思いはありました。レコーディングで、先生自ら『ヨイショ!』というかけ声を入れてくださいました。『頑張れ』という意味が含まれていますね」
「北島三郎命」の人生だった。演歌好きの祖父が歌う北島の歌が、子守歌だった。07年にTBS系バラエティー番組『さんまのSUPERからくりTV』の企画コーナーで、“演歌がうますぎる高校生”として人気者になった。
「北島大好き」を公言し、08年に北島音楽事務所入りした。北山ら多くの先輩が北島の内弟子として長く修業する中、大江はすぐに『のろま大将』(09年)でデビューした。
「デビュー当時、コンサートは月に15本、毎日のようにテレビに出て、いろんな催しに呼ばれました。ほとんど休みがない状況でした」
順風満帆だったが、10年11月に異変が襲った。パニック障害だった。突然起こる激しい動悸(どうき)や発汗、めまいといった体の異常とともに、命の危機など強い不安感に襲われる病気だった。検査で異常がなくても、発作を繰り返すのが特徴。多くの仕事をキャンセルし、北山や原田、故小金沢昇司さんら北島ファミリーが代役を務めた。
「『もう、歌手としておしまいだ』と思った時、北島先生に呼ばれました。『大変なのは分かる。でも、俺はもう1度、ステージの香りをかがせてやりたいと思っている。大丈夫、俺が治してやる』と言ってくれました」
「大江君」から「ユタカ」…呼称の変化で深まった絆
再起に向け、北島の付き人として常に一緒にいる生活が始まった。初めての内弟子生活だった。大江は北島の大きな変化を鮮明に覚えている。
「北島先生は最初、僕のことを『あのバラエティーの大江君です』と言っていた。それが付き人になって『うちの弟子のユタカです』と言ってくれるようになったんです。大江君からユタカと呼ばれ、先生との絆が深まったようで、うれしかったです」
全国区の人気者として事務所に入った時、大江は特別視されていたのかもしれない。呼称の変化は、北島が大江を真のファミリーと認めた証しでもあったのだろう。完治とは言えないが、今、症状は出ていない。
平成最後となる18年大みそかの第69回NHK紅白歌合戦。5年ぶりに特別枠で復活した北島とともに、大江は北山とのユニット・北島兄弟として同枠で初出場した。北島兄弟は、北島の歌魂と数々の歌を継承するために、同年に結成された。
「『北島先生と一緒に紅白に出演する』という夢が実現して、本当にうれしかったです。夢のような時間でした。そして、北島魂、北島演歌を継承していく使命に変わりはありません。これからも北島兄弟の活動を続けます」
コロナ禍でダイエットに努め、135キロから40キロ減に成功したという。確かに少しスリムになった。
「水炊きとか野菜中心の鍋ダイエットで成功しました。大阪出身で、焼きそばとかうどんとか粉ものが好きでしたが、今も意識的に炭水化物は控えています。体重が減ると、動きが速くなると思ったら、何も変わっていません(笑い)」
今後は北島の代表曲『与作』のように、自然と生活をテーマとした歌も歌いたいという。
「『コンサートで何を聴きたいですか』とお客さんに聞いたら、『サブちゃん』って。自分の歌はもちろんですが、北島先生の名曲を皆さんにお届けしていくのは、これからも僕の役目と思っています。北島先生は『演歌は生活の歌』と言い、演歌を『艶歌』と書いていました。僕も艶のある歌、日本人の生活に根差した歌を歌っていきたいです」
11月に35歳になる。演歌好きの高校生、苦難も乗り越えて大人の歌い手になった。今後が楽しみな存在だ。
□大江裕(おおえ・ゆたか) 1989年11月16日、大阪・岸和田市生まれ。演歌好きの祖父の影響で、幼少から演歌歌手を目指す。「恐れ入りますぅ~」などの丁寧な言葉遣いや、「平成生まれの昭和育ち」のフレーズが話題になった。2009年のデビュー曲『のとま大将」の他に『夕焼け大将』『男の出発(たび)』『檜舞台』『大樹のように』などがヒット。18年に北島兄弟を結成し、『ブラザー』を発表。同年の第60回日本レコード大賞で企画賞を受賞した。趣味は舞踊、ストール収集。無類のコーヒー好きで、オリジナルのレギュラーコーヒー「ゆたかな珈琲」(ドリップパック入り)を作っている。血液型O。