「平岡拓晃 日本の恥」と書かれた五輪メダリスト、屈辱を乗り越えた“習慣”「弱い人がやるもんだと思ってた」
2008年の北京五輪、12年のロンドン五輪と柔道男子60キロ級で日の丸を背負った平岡拓晃氏(39)。北京は1回戦負け、ロンドンは決勝で敗戦を喫した。16年の現役引退から8年、大舞台での負けを経験したからこそたどり着いた今について話を聞いた。
現在はスペシャルオリンピックス日本で理事長
2008年の北京五輪、12年のロンドン五輪と柔道男子60キロ級で日の丸を背負った平岡拓晃氏(39)。北京は1回戦負け、ロンドンは決勝で敗戦を喫した。16年の現役引退から8年、大舞台での負けを経験したからこそたどり着いた今について話を聞いた。(取材・文=島田将斗)
現在は筑波大の助教で2016年からは知的障がい者にスポーツの場を提供する取り組みを行っている公益財団法人スペシャルオリンピックス日本でも活動し昨年3月には理事長に就任した。
「IOC(国際オリンピック委員会)からも許可が下りている(※)名前なんです。4年に1回世界大会があって、2023年はドイツのベルリンで行われました。23年時点で競技数は、世界では夏季は27競技、冬季は9競技。知的障がい者はパラリンピックに23年時点では3競技しか出られません」
パラリンピックに比べ、知名度は圧倒的に低く、柔道は日本発祥ではあるが、スペシャルオリンピックスにおいては選手団を派遣できていないのが現実だ。「現役のときから知っていれば……」と悔やむ。それでも練習会に参加し新たな視点から柔道を見られたという。
「我々の柔道は『真面目に』という部分がある。もちろんそれもいいと思うのですが、デンマークの知的障がいのある方の練習会でカルチャーショックを受けました。(デンマークチームの)先生いわく脳外科の方と話し合いながら、知的障がい者の脳に良い影響を与えられるようなプログラムを考えているそうです。
本当に楽しくやらせる。そのなかにも柔道の仕組みを入れながらプログラムを組み立てていて、日本の柔道と全然違うなと。こういうことをやれば競技人口も増えるかもなって目から鱗でした」
「自分も金メダルを獲らなきゃいけないとかで結構悩んでた。実際獲れなくて自分に自信が持てないときに出会ったんです」と振り返る。
野村忠宏を破って北京五輪出場も無念の一本負け「柔道ノートを書くようにしました」
柔道は日本のお家芸。それでも「強がりは何も残らない」と断言する。負けやうまくいかないときに審判や周囲のせいにしていた時期もあった。さかのぼること16年前の北京五輪。まさかの1回戦負けから“反省”をするようになった。
当時は60キロ級で五輪3連覇を達成している野村忠宏氏と代表争いをしていた平岡。レジェンドを抑え日の丸を背負って北京の地へ向かったが、メダル争いに絡むことなく1回戦で姿を消した。
「自分の名前をインターネットで調べたら、『平岡拓晃 日本の恥』って出るんですよ。叩かれることは分かってましたけど、想像以上でショックでした」
その後、母親の乳がんも発覚。自身はもう逃げ場はないと「強がり」で保つことをやめた。
「強がりで『次、調子よければ勝てるね』っていうのはうまく消化せずに進むことになる。逆にそこでうまく対処しておけば、次のステージにいけると思ったので、それから柔道ノートを書くようにしました」
ノートに書くことは大嫌いだった。「書くのは弱い人がやるもんだと思ってたし、重要性も何となく分かってたけど、自分の字が汚くて見るのも嫌だったんですよ(笑)」と笑う。
それでも何かを変えたいとの思いで、「ノートを書くこと」、「揚げ物をいっさい食べないこと」を始めた。全てを変えた結果につかんだのがロンドン五輪での銀だった。
「振り返る習慣というのはあのときからです。でもやってみたら面白くて、ある大会に出たときの感想は2行だけ。でも別のページの国際大会に出た日の感想はノート1枚書いているんですよ。そのときは優勝していました。うれしかった、悔しかったの自分の努力を確認することもできたし、『自分はやってきたんだ』っていう気持ちの落としどころにできたので、全く無駄ではなかったですよね」
「勘違い力」も大切と説くが、もしも自分が金メダルを獲っていたら「うぬぼれていた」とうなずく。
「俺が答えだってなっていたかもしれないし、就職先も決まっていたと思う。逆にあそこで銀だったからこそ、現役終えた今でも勝てなかった理由を考えます。その結果、大学院に行って考え方を深めたり、スペシャルオリンピックスの活動をしているのだと思います」
「柔道だけじゃ気付かなかった刺激がいっぱいあります」。負けを知ったからこそ見えた景色がそこにはあった。
※IOCとスペシャルオリンピックス国際本部は、「オリンピック」の名称使用や相互の活動を認め合う議定書を交わしている。