BEGIN誕生秘話 “九死に一生を得た”イカ天出演「審査に落ちていたらどうなっていたんでしょう」
3人組・BEGINの島袋優が2月21日に初のソロアルバム『55rpm』をリリースした。rpmとは、レコードの回転数を表しており、同作をキヨサク(MONGOL 800)、NAOTO&HIROKI(ORANGE RANGE)、玉城千春(Kiroro)、大橋卓弥(スキマスイッチ)、山田孝之、横山剣(クレイジーケンバンド)ら総勢17組の仲間と作り上げた。島袋は今、人生55回転目。作品にちなみ、自身の半生、BEGINについてENCOUNTに語った。前編は「BEGINの始まりからデビューまで」。
島袋優インタビュー「前編」
3人組・BEGINの島袋優が2月21日に初のソロアルバム『55rpm』をリリースした。rpmとは、レコードの回転数を表しており、同作をキヨサク(MONGOL 800)、NAOTO&HIROKI(ORANGE RANGE)、玉城千春(Kiroro)、大橋卓弥(スキマスイッチ)、山田孝之、横山剣(クレイジーケンバンド)ら総勢17組の仲間と作り上げた。島袋は今、人生55回転目。作品にちなみ、自身の半生、BEGINについてENCOUNTに語った。前編は「BEGINの始まりからデビューまで」。(構成・文=福嶋剛)
初めに島袋優の「1回転目」から紹介したいと思います。
僕は沖縄の石垣島で学校の先生をやっていた両親の下に生まれました。もともとは漁師の家系で祖父が「息子には安定した職に就いてほしい」と言われて先生になったそうです。父は数学と理科、母は小学校の教師でした。厳しい親じゃなかったので、僕は「自由に育った」という感じです。
でも、本家の長男だったので、幼い頃から祝いごとがあると、親せきの集まりの席にちょこんと座ってどんちゃん騒ぎを見ていました。そのうち面白がって、見よう見まねで三線や太鼓で遊んだり、母親の実家ではカラオケで盛り上がったり。そんな宴の多い沖縄ならではの風景が広がっていました。小学生の頃は絵が得意でした。写生大会ではよく賞をもらっていて、「将来は絵を描く仕事をやりたい」と思うようになりました。
中学2年の時、親せきのお兄さんの家にあったドラムセットでよく遊んでいたので、自然と楽器に触れるようになりました。そしたら、同級生が「バンドやろうよ」と誘ってきて、最初はドラムでバンドを始めました。ところが、ギターをやっていた同級生がどっしりとした体格だったので、友達が「見た目からしてドラムでしょ」と一言。それがきっかけでドラムとギターを交代して、僕のギターの始まりです。
最初の頃は、エルビス・プレスリー、キャロル、クールスとかをコピーしていたんですが、2年の終りくらいに、同じ学校の(比嘉)栄昇がボーカルとして入ってきました。そして、3年になると、新任でやって来た先生がきっかけでさらに音楽にのめり込んでいきました。音楽の時間にレッド・ツェッペリンとか洋楽ロックを流してくれる。そんなちょっと変わった先生でした。僕は初めて洋楽ロックを聴いて、衝撃が走りました。先生はクラシックギターもめちゃくちゃ上手くて、先生の家に行ってギターを習いました。今までどんな楽器も独学で覚えてきた僕にとって、唯一の楽器の先生でした。
レッド・ツェッペリン、イーグルス、ドゥービー・ブラザーズ、ジャニス・ジョプリン…。先生の影響でバンドでは一回り上の世代のロックをコピーするようになりました。高校に上がるとドラムが別の高校に行ってしまい、栄昇と当時のベースの3人で新しいバンドを組みました。バンド名は栄昇が辞書をパラパラとめくりながら「これにしよう」と言って、“BEGIN”に決まりました。高校でも変わらずにクイーンとかディープ・パープルをやったり、新入生歓迎会ではサザンオールスターズを演奏したり、オリジナルはまだ1曲もないコピーバンドでした。
その後、僕はアメリカの映画に影響を受けて、街の空間をデザインするような仕事に就きたいと思い、高3になると東京の美術大学を目指して受験勉強を始めました。でも、専門の勉強をしてこなかったから見事に落ちてしまい、東京の美大専門予備校に通い始めました。栄昇も浪人が決まり、東京の予備校に通っていたので、栄昇と「東京でバンドをやろう」と言って始めました。(上地)等(BEGIN・ピアノ)も小学生の頃からの友達で、東京の音楽専門学校に通い、別のバンドを組んでいたんですが、「一緒にやろう」と誘って3人でライブハウスに立つことになりました。「バンド名はBEGINでいこう」と決まり、ドラムの代わりに打ち込みの機械を使って、ロック系のコピーを再び始めました。
やっていくうちに栄昇はソウルミュージック、等はニューオリンズの音楽、僕はブルースが好きになり、3人ともルーツミュージックにハマっていきました。ここで僕たちの音楽の方向性が変わりました。また、高い音の曲が多かったので栄昇の声にも限界がきていて、3人とも憂歌団が好きだったので、「打ち込みを止めて座って演奏しようか」と言って初めてオリジナル曲を作りました。それが『恋しくて』という曲です。
当時の僕たちが演奏できたのは、世田谷の上馬にある「ガソリンアレイ」というライブハウスさんだけでした。お客は島の同級生だけ。全然広がりがなかったんです。栄昇も「そろそろ石垣島に帰らないといけない」と言って微妙な感じになってきて、「どうしよう」と思っていたんです。そんな時、テレビで『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)が始まりました。通称「イカ天」ってやつです。それを見た栄昇が応募もしていないのに、「俺たちもイカ天に出るから」とステージでポロッと言っちゃったんです。それを聞いて等と僕は焦って応募したら、審査に通っちゃったんです。まさに「九死に一生を得た」という出来事で、審査に落ちていたらBEGINはどうなっていたんでしょうね。
バンドブーム時代に3人座って歌うスタイルは異様だった。
僕たちは東京のミュージシャンの友達がいなかったから、「やっと仲間ができる」とイカ天の出演を楽しみにしていました。でも、出てみると周りは必死に「イカ天キング」と呼ばれるトップを目指していたからバチバチでした。僕たちはイカ天キングになってどんどん勝ち進んでいったので、楽屋にいると周りのバンドの人たちはピリピリでした。それが嫌で嫌で、いつも本番まで、3人で有楽町とか新橋に行っていました。
当時はバンドブームで縦ノリの音楽が主流でした。だから、僕たちみたいに3人座って歌うスタイルは周りから見ても異様でした。そんなBEGINが毎週勝ち進みました。SNSがなかった時代だけど、「こんな地味な歌を歌いやがって」とか非難の声が届くことも覚悟していました。まだ21歳の頃。正直、不安もありました。でも振り返ると、何となく「俺たち結構、カッコいいことやれているから、きっと分かってもらえるよね」と信じていたと思います。そして、僕らは5週勝ち抜いてグランドイカ天キング(2代目)になりました。
ただ、出演していた頃はまだ全国放送になる前だったので、「イカ天バンド」と呼ばれても周りはピンと来てなかったと思います。それから、東京に住んでいる「うちなんちゅ」(=沖縄生まれの人)が「BEGINというバンドが活躍しているよ」って広めてくれて、石垣島とか沖縄のテレビで、イカ天に出ていたBEGINの特集が放送されました。地元の人に僕たちの姿を見せることができました。イカ天は僕たちにとって学校とか同窓会みたいな感じのところですね。今でも(司会の)三宅裕司さんと仲良くさせていただいているし、僕は「イカ天バンド」って呼ばれることへの抵抗を感じたことはなかったな。
翌年、1990年にはシングル『恋しくて』でデビューをしました。来年はBEGINとして35周年です。その間に栄昇も等もそれぞれソロアルバムを出してきたんだけど、僕は今までソロ作品を出そうとは思ってこなかったんです。なぜかと言うと、自分がやりたい音楽がBEGINで十分できているからそれで満足でした。でも、2015年に桐谷健太くんに書いた『海の声』という曲で少し変化がありました。
今回はここまでです。「後編」はもう少しBEGINの話をしながら、僕のソロアルバムについて話をしたいと思います。
□島袋優(しまぶくろ・まさる) 1968年9月23日沖縄・石垣島生まれ。BEGIN のギタリストとして90年、『恋しくて』でデビュー。以降、『島人ぬ宝』『涙そうそう』『笑顔のまんま』など、老若男女に指示されて歌い継がれる楽曲を発表。2015年、桐谷健太の『海の声』を作曲。同曲はCMでも話題となった。10年ほど前には沖縄本島に移住。それをきっかけに沖縄の自然を表現した作品を中心に、絵画制作を行っている。