“ホリエモンの右腕”豪遊生活が一気に崩壊「みんな手のひら返し」 1食200円どん底からの再起
実業家・堀江貴文氏のもとで“ホリエモンの右腕”として働き、華麗なる六本木ヒルズ生活を送っていたが、自身とは無関係だったライブドア事件で一転。豪勢に飲み歩く日々から1食200円の節約生活を歩むように。そこから「修行」を経て、ビジネススクールの起業を果たした経営者がいる。『ワンネス株式会社』の社長を務める石山喜章氏だ。中学時代に壮絶ないじめを受け、生きる意味を模索し続ける人生は「波瀾万丈ですが、いろいろあると飽きなくていいですね」。七転び八起きの生き方とは。
表参道に住んで西麻布で飲み歩いた日々からルームシェア暮らしに “生きる意味”を模索
実業家・堀江貴文氏のもとで“ホリエモンの右腕”として働き、華麗なる六本木ヒルズ生活を送っていたが、自身とは無関係だったライブドア事件で一転。豪勢に飲み歩く日々から1食200円の節約生活を歩むように。そこから「修行」を経て、ビジネススクールの起業を果たした経営者がいる。『ワンネス株式会社』の社長を務める石山喜章氏だ。中学時代に壮絶ないじめを受け、生きる意味を模索し続ける人生は「波瀾万丈ですが、いろいろあると飽きなくていいですね」。七転び八起きの生き方とは。
「なんで生きないといけないのか」。石山氏が人生を通して追い続けるテーマの背景には、中学時代のつらい経験がある。
中学1年のときにクラス全員から無視され、中3になると特定のクラスメートたちから執拗(しつよう)な嫌がらせを受けるようになった。8月31日の夏休みの終わりの日に、両親の部屋で包丁を手首に当てるところまでいったが、なんとか踏みとどまった。絶えなかった悪らつないじめ。「中3の秋ごろです。ある日の帰り道に、『もう今はどん底なんだから、これからは上向くはず。この経験が生きるときがきっとくるはず』と、ふと思ったんです。これが転機になりました」。不登校になることなく、耐え抜いた。
生きる意味を探そうと、高校時代は登山に熱中。大学では物理を貪欲に学んだ。社会人になってからは、黎明期のITベンチャーの世界に飛び込んだ。
持ち前のコミュニケーション力を生かし、営業マンとして飛躍。売上ノルマが1人1億円の会社で3億円の成績を挙げた。「それでも、僕がまだ若いからと言って、給料は1円も上がらなかったんです」。20代前半で年功序列の壁に打ちのめされた。
悩んでいるときに、別の以前の勤め先の元上司から声をかけられた。いわゆる引き抜きで転職したのが、株式会社オン・ザ・エッヂ(のちのライブドア社)だった。旧知の元上司はライブドア社のメディア事業部トップで執行役員・副社長となり、石山氏はメディア事業部ナンバー2の幹部としてゼロから事業を立ち上げた。堀江氏と会ったのは入社後だったといい、ストレートな性格という意味で「わがままな子どもといった印象でした」と振り返る。石山氏は会議の場で、創業者である堀江氏の考え方に意見することもあったといい、いい意味で緊張感を持って接していたという。
4年間、堀江氏のそばで働いた。ライブドアのメディア運営だけでなく、法人営業や新規事業のプロデュース、総務・訴訟対応など幅広い業務をこなした。
2006年1月、28歳のとき、最大のピンチが訪れる。打ち合わせ先から本社のある六本木ヒルズに戻ると、報道陣の姿がずらり。オフィスのある38階のエレベーターから降りると、家宅捜索に来た東京地検特捜部の捜査員たちが列をなしていて、言葉を失った。当時のデスクの島には堀江氏の席もあった。最高幹部たちのパソコンや携帯電話、資料が次々と取り上げられるのを目の当たりにした。その後の逮捕劇、マスコミの過熱報道……。ライブドア事件で人生が暗転した。石山氏と上司のメディア事業部役員は刑事訴追を受けることはなかった。抱えていた業務が一段落し、新体制が整った同年8月に、2人そろって「区切りを付ける」ためライブドアを退職した。
騒動の中で、痛感したことがいくつもあったという。「当時の社員たちの動揺は半端なかったです。なんでこんな目に遭うのか、という悔しさもありました」。
それに、当時住んでいたのは都心の一等地・表参道。事件前は、会社と家の間にある西麻布で週5、6日は合コンや業界関係者・有名人との飲み会に明け暮れていた。「1食2万円のディナーは普通。ライブドアの名前が世の中に知れ渡るにつれて、どこに行っても人が寄ってきました。『俺ってこんなにモテるんだ』と、錯覚していました」。ゴージャスな豪遊生活は一気に崩壊。「事件から1週間で、みんな手のひら返しでした。毎月80万円のコンサル料を支払っていた著名人まで『ライブドア社との付き合いはありません』って。みんな離れていきました」。すべてが虚栄だった。1人ぼっちになった。
「建前で生きると息苦しくなります」 自らを日々改善
そこで再び、生きる意味を見つめ直した。「悟りをビジネスでどう使うのか」を重視し、悟りを開いたと自称する人を独自に探して、21人に会いに行き、尊敬できる1人にたどり着いた。07年秋に弟子入りし、師匠が興した事業会社に合流。完全歩合制で働きながら、禅問答のような人生に関する対話を繰り返し、「悟り修行を重ねていきました」。表参道の家を引き払い、ルームシェア暮らしに。3000円のランチを平気で食べていた食生活は、1食200円以内で切り詰めるように。人生の再スタートを切った。
その後、17年に、方向性の違いなどから師匠とたもとを分かち、独立した。現在は、自ら立ち上げたビジネススクールで社会人向けにビジネス論や人生哲学などを教えている。塾生には有名企業のマネジャークラスも加入しており、経営者は3割いるという。
石山氏は「会社の売上は社長の器が重要。自分自身の器を広げることに努める」をモットーに、従業員とのコミュニケーションを重視し、毎日の日記を付けながら自身の課題改善に取り組んでいる。「これは塾生にもよく話すことですが、本音と建前についてです。建前で生きると息苦しくなりますが、本当に自分は何をしたいのか。本音の部分で自分の心と向き合うことが大事だなと考えています」と語る。
自身の半生を振り返って、「人生がアトラクションだとすれば、たくさんあるほうが面白いですよね。毎回に学びがあって、成長があります」と笑顔を見せる。ビジネススクールの卒業生が、企業内でパワハラ当事者と向き合う担当者になったり、不登校児に寄り添う担当者になったり、コーチング(相手の自己成長を支援するコミュニケーション技術)の分野で社会で活躍するようになってきていることに手応えを感じているという。「いじめ、パワハラ、カスハラ、それに自暴自棄になった末の犯罪。すべてに人の心が関係しています。これからも心の社会課題解決に貢献していきたいです」と力を込めた。