若林健治アナのプロレス実況40年の思い 人事異動で日本テレビ退職を決意

プロレスの実況アナウンサーとして活躍し、もうすぐ40年になる元日本テレビの若林健治アナ。熱い思いのこもった実況にプロレスファンだけでなくレスラーのハートもつかんで魅了してきた。40年近いプロレスの実況人生の思い出や、2007年にフリーに転身した事情と近況も聞いた。

言葉を司ってきた人生を振り返った若林健治アナ【写真:ENCOUNT編集部】
言葉を司ってきた人生を振り返った若林健治アナ【写真:ENCOUNT編集部】

2007年フリーに転身、今は町おこしプロレスの場内実況も

 プロレスの実況アナウンサーとして活躍し、もうすぐ40年になる元日本テレビの若林健治アナ。熱い思いのこもった実況にプロレスファンだけでなく、レスラーのハートもつかんで魅了してきた。40年近いプロレスの実況人生の思い出や、2007年にフリーに転身した事情と近況も聞いた。(取材・文=中野由喜)

 まずはプロレスがどれだけ好きなのか尋ねた。

「小学校の頃はジャイアント馬場さんが試合に負けるとショックで学校を休んだこともあります(笑)。当時、テレビでプロレスを見るときはまず、お茶をいれます。トイレに行き、座布団を持ってきて正座し、テレビのスイッチを入れる式次第が子どもながらにありました」

 プロレスの実況アナを志した理由も聞いた。するとジャイアント馬場さんへの愛があふれてきた。

「本当は子どもの頃からプロレスラーに、馬場さんみたいになりたかったんです。馬場さんの魅力は強くて圧倒的な存在感。『水戸黄門』みたいなところが好きでした。16文キックがでたら勝つ流れ。ただ、さすがに中学生になるとレスラーになるのは無理と気付き、大学卒業後の1981年に中部日本放送に就職しました。学生時代に興味を持ったラジオのDJができる会社。僕のラジオ番組ではプロレスのテーマ曲しかかかりませんでしたけど(笑)」

 84年に縁あって日本テレビに中途入社し、同年5月の後半には念願の後楽園ホールで初めて試合の実況を担当した。プロレスの実況アナとして幸せを感じたことを聞いてみた。

「タイトルマッチのとき『実況は誰?』と選手が聞いてきて、僕だと言うと『ヤッター』と喜んでもらったときでしょうか。三沢光晴選手対川田利明選手の試合で、川田選手が喜んでくれました。幸せでした。スポーツアナの醍醐味(だいごみ)はお互い若手の頃、『ビッグになろうね』と互いに励ましあい、それが実現すること」

 一番つらかったことは何だろう。

「馬場さんが亡くなったときです。僕がラジオ日本に出向しているときでした。亡くなる前に馬場さんが『ギャラなんていらないからおまえのために行く』とゲスト出演してくれたことがあり、2週分収録したら『いっぱいしゃべれた』と、すごく喜んでくれました。プロレスを離れラジオ日本に出向中で、そばにいられなかったことが悔やまれます。そばにいたら体調の異変に気付いたかもしれない。訃報を聞いたときは白昼夢……ぼう然でした」

 馬場さんの思い出をあらためて語ってもらった。

「体だけでなく人を思いやる心もビッグな人。高価なコートを頂いたこともあります。馬場さんのお下がりですからブカブカ。サイズを直そうにも無理(笑)。馬場さんは多くは語りませんが、奥さんは『私は分かるの。主人はあなたを気に入っています』と。とにかく面倒見がいいんです。弟子によく食事をごちそうし、私も時々ごちそうになりましたが、遠慮していると『ステーキ食え』と言われました。馬場さんは意外に小食でハンバーガーなら2個程度。地方での試合後、小腹がすいてフィレオフィッシュバーガーを食べたことがあり、『うまい。買い占めてこい』と気に入っていました。その後、ハンバーガーはフィレオフィッシュばかり」

 2007年に日本テレビを退社した。事情を聞いてみた。

「06年4月に事業部に異動になり1年もしないうちに嫌になって辞めました。事業部では主にイベントを企画、開催するわけですが、司会はアナウンサーに頼むんです。そこで『できません』と言われることも。そこを何とかとお願いするのですが、私も嫌になって……」

 それでも夏には街頭プロレスを企画し、観客約5000人が集まる好評ぶりだったという。ただ実況は現役のアナウンサーだった。

「僕にできることはプロレスの実況しかないんです。僕の著書に『プロレスのために日本テレビを辞めた男』がありますが、本当はプロレスに助けられた男。事業部でも……。フリーになってプロレスの実況をしたかったんです」

 今、プロレスとの関係はどうか。

「テレビでプロレスの実況する機会はありません。でも地域の活性化を目指す神田プロレスなど町おこしプロレスに携わっています。町田プロレス、浅草プロレス、佐賀にもプロレス団体があります。場内実況をやっています」

 若い世代に伝えたいことも聞いてみた。

「僕の父ががんと闘っているとき、私が学生時代にお世話になったアナウンススクール(山本勉強会)の師匠が見舞いに来てくれたことがあります。僕が父に『頑張って』と言ったら師匠に怒られたんです。『お父さんは十分頑張っている。頑張れじゃなく、僕がついているから大丈夫だよと、何で言えないんだ』と。自分のことだけでなく、言葉は人のために使うと輝きを増します」

 最後に約40年のアナウンサー人生を振り返ってもらった。

「放送は励ましです。たとえばスポーツ界では、どんな一流選手もスランプがあり試練を乗り越えて脱します。それを放送で伝えることは視聴者には『自分も頑張ろう』と励ましになると思います。僕にも自負があり、プロの取材力と表現力でそれを伝えるという思いがあります。だから、これからも人を励ます人生でありたいと思います」

□若林健治(わかばやし・けんじ)1958年2月23日東京生まれ。新聞配達で家計を助け、埼玉・浦和西高校卒業後に文房具の会社に就職。本来は千葉大を受験するはずだったが試験当日、千葉大までの交通費がなく断念。就職し学費をためて法政大学に進学。学費が滞り4回除籍になったが81年に卒業し、中部日本放送に入社。84年に日本テレビに中途入社し、プロレスの実況アナとして活躍。ほかに『スーパージョッキー』『ズームイン!!SUPER』などにも出演。系列会社のラジオ日本でも活躍したが2006年に事業部に異動。07年に退社しフリーとなりFIGHTING TV サムライなどのプロレス実況。各大学でアナウンス講座。学生のために業界最安で「若林健治アナウンススクール」主宰。(株)オールウェーブ・アソシエツ所属。

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