プリンセス プリンセスのリーダー渡辺敦子が語る“ブレークまでの6年間” 寄せ集め5人が誰も抜けなかった理由
一世を風靡したガールズバントのプリンセス プリンセス。リーダーだった渡辺敦子は、2016年に地元の千葉・市原市で児童発達支援・放課後等デイサービス施設のダイアキッズを開設した。21年からは、バンド解散後から携わる東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校のTSMで学校長を務めている。今も音楽に触れながら、社会貢献活動で多忙な毎日。その半生を本人が振り返った。「前編」はバンド結成の経緯から、プリンセス プリンセスとしてブレークするまでを語った。
渡辺敦子インタビュー「前編」
一世を風靡(ふうび)したガールズバントのプリンセス プリンセス。リーダーだった渡辺敦子は、2016年に地元の千葉・市原市で児童発達支援・放課後等デイサービス施設のダイアキッズを開設した。21年からは、バンド解散後から携わる東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校のTSMで学校長を務めている。今も音楽に触れながら、社会貢献活動で多忙な毎日。その半生を本人が振り返った。「前編」はバンド結成の経緯から、プリンセス プリンセスとしてブレークするまでを語った。(構成=福嶋剛)
プリンセス プリンセスのメンバーは、アイドルバンドのオーディションで合格した16~18歳の寄せ集めでした。「今日からあなたたちがメンバーです」と言われ、見ず知らずの5人で結成したのが1983年。もう40年もたったんですね。
私は小学生の頃、ヘラヘラしていて落ち着きのない子どもでした。通知表には「集中力ない」「理解力ない」「おしゃべりが多い」「忘れ物が多い」といつも書かれていました。何をやっても長続きしない。ただ、音楽だけは長続きしました。
幼少からピアノを習っていたので、中学生で初めて組んだバンドではキーボードを担当していたんですけど、何か面白くない。そんな時、友達が持っていたベースの「ボーン、ボーン」という重低音に魅せられて、楽器を持ち替えました。譜面が読めなくて耳コピーが主流でほぼ独学です。サザンオールスターズ、ツイスト、ゴダイゴ、アリスといった人気バンドを片っ端からコピーして、高校生になると、地元千葉県で開催していたコンテストで「ベストベーシスト賞」をいただくようになりました。世間知らずの田舎ものだった私は「音楽でやっていけるかも」と思って、イケイケでしたね(笑)。親も「非行に走るくらいなら(音楽を)やりなさい」と応援してくれて、当時は女子のベーシストが珍しかったので、男子に混じって5つくらいバンドを掛け持ちしていました。
でも、将来は誰かを救う仕事に就きたくて看護学校を受験しましたが、失敗。そこで担任の先生が就職先を探してくれることになったのですが、そのタイミングでレディースバンドのオーディション(TDKレディスバンドオーディション)を知りました。「だったら、女の子バンドで成功してやる!」と思ってすぐに応募。2000人以上から選ばれたのが、私と同じ高校3年生のかなちゃん(中山加奈子)、1つ下のきょんちゃん(富田京子)、ともちゃん(今野登茂子)、2つ下の香(奥居香、現・岸谷香)の5人でした。
私はベースで応募したんですけど、たまたま家にあったギターを持っている写真を送ってしまったんです。メンバーとは選考段階で会っていて、その中でも香は一際目立っていてベース選考で一緒でした。当時、自信過剰だった私は香の演奏を見て、「いける」と思ったんです。ただ、審査員との質疑応答で香は「合格するためだったら何キロでも痩せます」と言い切りました。その本気度を目の当たりにし、危機感を覚えました。その後、審査員が私に「ギターは弾けますか?」と質問してきました。先ほどの香の気迫を見ていたので、3つのコードくらいしか弾けなかったんですが、私は「はい! できます」と即答してしまいました。そしたら、ギターとして選ばれちゃいました(笑)。
リードギターはかなちゃんだったので、役目はおのずとサイドギターでした。活動していく中で今後の展開を考えていかないとならない時期がやってきた頃、私は「やっぱり、ベースがやりたい。嫌々にギターを弾いていては迷惑をかけちゃう」と思い、辞退しようとしていたら香が、「あっこちゃんベース弾きなよ」って言ってくれました。そして、香が「ギターもやる」と言ったんです。ちなみにピアノ、ドラム、ベースもできるので、ギター制覇でマルチプレイヤーですよね? 香はあれから独学でギターを練習していたんです。事務所はメインボーカルを香にすると決めていたようで、うまくパートチェンジができました。私は見た目がメンバーの中で大人っぽいというか、よく現場でマネジャーと間違われていたので、いつの間にかリーダーに指名されました。
当時、事務所が赤坂にあったのでバンド名は公募で「赤坂小町」に決まりました。初めは「四文字熟語のバンド名?」と思いましたが、右も左も分からない10代の私たちだったので、全て会社の方針に従っていました。「世の中的に次はロンドンポップスが来るぞ」と言われ、急にヘアスタイルを刈り上げにされたこともありました。会社も試行錯誤。方針が二転三転していくうちに、私たちは「ロック色を強くしてオリジナルをやった方がいいよね」と思うようになりました。
そして、「このまま行ったらどうなるのかな?」と不安だった頃、「私たちに可能性を感じる」と言ってくれた人の情熱に引かれ、全員で小さな事務所に移籍して、バンド名をJULIAN MAMA(ジュリアン・ママ)に変えました。オリジナル曲は発表していないのですが、パット・ベネターとか洋楽のカッコいい曲をたくさんコピーしていたので、演奏力が格段に上達しました。さらに、「いつか自分たちで出したい」と思ってメンバーが作っていた曲が、後のプリンセス プリンセスの曲につながりました。振り返ると、この時代にプリンセス プリンセスの基盤ができていました。
その後、「シンコーミュージックがガールズバンドを探している」という話があり、社長の草野昌一さんに声を掛けていただきました。ソニーミュージックから再デビューすることも決まり、プリンセス プリンセス(PRINCESS PRINCESS)としての活動が始まりました。名付け親は私たちのプロデューサーだったムーンライダーズの岡田徹さんです。デビュー・ミニアルバム『Kissで犯罪』(86年)の制作中、「君たちにぴったりのバンド名がある」と言って、この名前をお披露目してくれました。初めは「自分たちで『お姫様』って言っちゃう?」と思いましたが、「シンコーミュージックとCBSソニーという大きな船に乗って、とにかく私たちは売れたい」という気持ちでした。思えば草野さんも、岡田さんも亡くなってしまいました。お世話になった方がいなくなるのは寂しいですね。
再デビューから2、3年後。私たちの状況が良くなりました。89年の7枚目のシングル『Diamonds』から始まり、『世界でいちばん熱い夏 』(89年)、『OH YEAH!』(90年)、『ジュリアン』(90年)、『KISS』(91年)、アルバムも『LOVERS』から93年の『BEE-BEEP』まで、全ての作品でチャート1位を獲ることができました。ライブは全都道府県ツアーだったり、日本武道館、西武球場、横浜アリーナでもやれました。街では私たちの曲がいろんなところで流れていました。とにかく火のつき方が急で、不思議な気持ちでした。私はその頃でも、普通に総武線とタクシーを乗り継いで武道館や歌番組の会場まで通っていました。満員電車で、真上の中吊り広告を見ると私たちが写っていました。バレないように前髪で目を隠しながら、下を向いていましたね(笑)。あの頃、SNSがあったらそんなことはできなかったでしょうね。
当時、20代前半だったメンバー5人は音楽的に純粋で「売れたい=お金持ちになりたい」ではなく、「もっと自分たちの音楽を聴いてもらいたい」でした。赤坂小町やジュリアン・ママでの下積み時代の3年間を含めた6年間の5人の努力があったからだと思います。私たちはオーディションで選ばれた5人ですが、事務所が変わって苦労しても誰ひとり抜けなかった。それは「今、辞めたら後悔してしまう」とか、「まだまだやり切った感じがしない」という気持ちがあったからだと思います。振り返ると、下積みの期間はメンバー同士が理解するために必要な時間でした。
そして、96年。私たち5人はミュージシャンとしての成長とともに、大きなターニングポイントを迎えました。(続く)
□渡辺敦子(わたなべ・あつこ)1964年10月26日、熊本・水俣市生まれ。千葉県育ち。83年、赤坂小町でバンドデビュー。86年、プリンセス プリンセスのベーシスト、リーダーとしてメジャーデビュー。数々のヒット曲を残し。96年に解散。同年、東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校(TSM)副校長に就任。2012年、プリンセス プリンセスを期間限定で再結成し、16年3月に活動終了。同年、児童発達支援・放課後等デイサービースのダイアキッズを開設。21年10月、TSM学校長に就任。今月、稲川淳二の「稲川芸術祭2023」テーマソングをTSMの学生コンペで選出する“稲川芸術祭meet’s TSM”と題したコラボ企画をプロデュース。
TSM:https://www.tsm.ac.jp/
ダイアキッズ:https://www.dia-kids.com/
稲川淳二の「稲川芸術祭」:https://www.inagawa-art-festival.com/