桂文枝、予想外だったダウンタウンの台頭 “時代とのズレ”が落語の道への後押しに
7月16日で傘寿(80歳)を迎える六代 桂文枝。芸能生活57年、これまで数々の人気番組に出演し、落語家としては「創作落語」を316作、世に送り出してきた。そんな文枝が家族への思いや後悔、お笑い界の潮目について語った。
7月16日で傘寿、芸能生活57年を振り返る
7月16日で傘寿(80歳)を迎える六代 桂文枝。芸能生活57年、これまで数々の人気番組に出演し、落語家としては「創作落語」を316作、世に送り出してきた。そんな文枝が家族への思いや後悔、お笑い界の潮目について語った。(取材・文=島田将斗)
人生の7割以上を芸能の世界で生きている。紫綬褒章や旭日小綬章を受章するほどの伝説的な存在であり、所属事務所・吉本興業の重鎮でもあるがおごりの気持ちは一切なかった。
「自分が仕事をしようと思っても仕事がないとできないですから。仕事をいただいてる吉本さんに本当に感謝ですね。一つずつ頑張ってやってたらここまできた感覚です」
笑いの聖地・大阪にも若手芸人がほとんどいなかった時代を生きてきた。本人いわく、「たまたま」ラジオやテレビ番組に出演し「たまたま」当時の吉本興業の社員に声を掛けられ、ここまできたという。
「とにかく若いときは仕事がきつかったですけど、同世代で『横山やすし・西川きよし』さんがいました。この2人が本当に頑張っていました。きよしさんは頑張っていましたけど、やすしさんは自由奔放に頑張っていました(笑)。僕はやすしさんと同じ年でね、本当に仲良くて、舞台の上ではライバルとしてやっていました」
こう語る文枝はふと「きよしさんがひとりで頑張っておられますけど、やすしさんとの漫才がなくなったというのは寂しいですよね」としみじみとしていた。
人間国宝・桂米朝と交わした会話「これからやなぁ」
57年間現役。普通の会社員には考えられないことだ。文字通り、毎日働き続けてきたが息切れは全くなかった。
「息切れしている間がなかったです。最初の頃はテレビタレントみたいな扱いだったんですけど、40歳くらいのときに『花王名人大賞』を獲ってからは落語家として認められて、それから創作落語を本格的に作るようになりました」
看板番組といえば『新婚さんいらっしゃい!』(ABCテレビ)だが、そのほかにも数えきれないほどのテレビに出演してきた。その仕事も40代くらいから徐々に減っていく。そこが文枝にとっての転機の一つだった。
「テレビの仕事がなくなったころに落語がどんどん出てきました。テレビと違って、舞台の仕事というのはお客さんの前で長くしゃべるというか好きにやりますのでね。それなりの準備もいる。だからずっとなにかを考えたりしてきました。仕事がなくなって、焦ったり、落ち込んだことはなかったですね」
60歳を迎えた際に三代目桂米朝と交わした会話をいまも忘れていない。
「人間国宝の米朝師匠に60歳を報告したら『落語家としてはこれからやなぁ』って言うてくれはって。それから上方落語協会の会長になって、社団法人にしたりとか劇場作ったり、協会会館作ったり、いろいろやりました。ゆっくりしている間はなかった」
一方で心残りもあった。流暢(りゅうちょう)な語りが突然スローになった。
「一つ後悔しているのは、家庭を大事にできる時間がなかった。子どもも大きくなってますけど、もっといろいろコミュニケーションを取ったりやってればよかったと思います。嫁さんは2年と5か月前に亡くなりましたときにも、もう少し長いこと一緒にいてあげられたら良かったと感じました」
そう口にする文枝の手の小指の爪には白い星のネイルが施されている。「星になった」妻といつも一緒にいるためだと柔らかい口調で明かした。
「まぁ頑張ったおかげでみんなも生活もできたわけですから。今の若い人はどれくらい稼いでるとか貯金があるとか気にしますけども、僕は気にしたことがなかった。そういうのも全て嫁に任せっきりだったのでね……」
第一線で活躍のダウンタウンに尊敬の念
業界に長くいるからこそ、さまざまな瞬間も目の当たりにしてきた。文枝の目に映るお笑い界について明かす。
「今の芸人さんは数が多いから大変だと思いますね。それぞれ個性を出して。恵まれているのはいろんなコンテストがあることですよ。そこに向けて1年間必死に頑張ったら、栄光を手にすることができるわけです」
「すごい」と称賛する芸人がいる。笑福亭鶴瓶に明石家さんま、ダウンタウンだ。
「長く続けるという意味ではさんまちゃんとかダウンタウンさんはすごいと思いますよね。さんまちゃんとか鶴瓶ちゃんが出てきたときは『これは面白いな、絶対人気者になる』と思っていました」
ダウンタウンの台頭は予想外だった。時代の潮目に気づいた瞬間だった。
「大阪の新人コンテストで彼らは優勝したんですけども、出ているときから『キャーキャー』言われていました。面白いけども、よく分からない。あの辺から僕も時代的にずれてきたんだなと思います。そういうのも落語への道へ拍車をかけたのもあるんですね」
笑いは「常に新しいものが出てくる」と強調する。何十年も第一線で活躍するダウンタウンに尊敬の念を向けていた。
「彼らが素晴らしいのは、年末の『ガキの使いやあらへんで』。今はちょっと休んでいるけれど、司会とかやっていると『ちょっとそういうことはできないな』と思うような感じでした。彼らは、自分らが身を張ってやることもやる。それがすごいな。あれはやっぱり敵わないなと」
強く生んでくれた母に感謝
文枝ももう80歳。しかし、老いは決して感じさせない。声には張りがあり、トイレへ行くときには軽快に走っていく。強く生んでくれた母や自身が生後わずか11か月のときに亡くなった父への思いを打ち明けた。
「57年間……。サラリーマンには考えられないことですよね。社長とか会長になれば話は別なのでしょうけど。大きな病気をしなかったのは母に感謝ですよね。父は私が11か月で太平洋戦争で亡くなっていますからね」
顔も声も覚えていない父。文枝の現在の姿をどう見ているのだろうか。懐かしそうに両親を思い返す。
「父は銀行員だったので、母はよく『お父さんは真面目』と話していました。銀行員というのは本当に1円でも合わなかったら帰れない、そういう仕事です。『お前がお笑いが好きになって信じられないよ』って母にはよく言われましたけどもね。
前に『パンチDEデート』(関西テレビ)をやっているときにね、父の同僚だった人が突然尋ねてきて、父のことを初めて聞けたんです。父は土曜日の午後とか日曜日とかは競馬に行ったり、吉本のお笑いを見ていたそうです。それで明くる日に会社へ来て話していた。いやぁ、お笑い好きだったみたいです。だから父のできなかったことをやっていると思ってうれしかったです」
さらにこう続けた。
「もし生きていたら、母の手前、反対するでしょうけど(今の自分を見て)『ようやった』って言ってくれると思いますね。父の好きなお笑いをやってるかどうかは分かりませんけども」
さまざまな経験をし、いろいろな思いで今も舞台に立っている。健康第一ではあるが、落語家としての目標は創作落語を「前人未到の500作」作ること。あと184作、目標達成へ息継ぎをしている暇はなさそうだ。