父は映画スターで母は超お嬢様、“職人”だったノッポさんの素顔と若者に伝えたかったこと
俳優・高見のっぽさん(享年88)の死亡が公表されて1か月。長くノッポさんを支えてきたマネジャーで、事務所代表の古家貴代美さんがENCOUNTの取材に応じた。ノッポさんの知られざる素顔、生きざま、伝えたかった思いとは。
訃報発表から1か月、事務所代表「温かいメッセージに感謝」
俳優・高見のっぽさん(享年88)の死亡が公表されて1か月。長くノッポさんを支えてきたマネジャーで、事務所代表の古家貴代美さんがENCOUNTの取材に応じた。ノッポさんの知られざる素顔、生きざま、伝えたかった思いとは。(取材・文=福嶋剛)
「おかげさまで、多くのメディアがノッポさんに愛のある報道をしてくださいました。ファンのみなさんからも、SNSなどを通してたくさんの温かいメッセージをいただきました。心から感謝しています。少しはノッポさんに喜んでもらえるような形で公表できたのかな、と思っています。でも、『ちょっとしゃべりすぎですよ』と叱られるかもしれませんね」
ノッポさんの訃報が伝わった当日、NHKが真っ先に追悼コメントを発信した。そこには、長年番組に携わってきたノッポさんへの敬意と感謝が込められていた。
「ノッポさんは常々、『自分は仲間がいたからここまでやってこれたんだ』と仰っていました。『できるかな』でもスタッフさんと飲みに行くようなベタベタしたお付き合いはなさいませんでした。が、深い信頼関係で結ばれていましたし、局内ではカメラマンからお掃除のスタッフまで全ての人たちに丁寧に声を掛けていたそうです。番組終了後、私がひとりでNHKのスタジオに行くたびにたくさんの人から「昔、ノッポさんにはすごく世話になったんだ」「いつも優しく挨拶してくれた」などと声をかけていただき、みなさんのノッポさんへの愛を感じました。今回、ノッポさんが旅立ったことをお伝えした時、NHKさんはすぐに公式SNSで追悼メッセージを出してくださったり、『できるかな』などの、ノッポさんの追悼番組を放送していただきました。本当にありがたいことでした」
ノッポさんの訃報は海外でも取り上げられた。
「『できるかな』は中南米、アジアをはじめ世界でも放送されていたので、SNSを通して海外からもたくさんの追悼メッセージをいただきました。以前、海外の子どもたちが番組を見ている様子を映像で見たことがあるのですが、砂漠みたいな何にもないところにスクリーンを立てて、家族だけでなく牛やヤギもそろって食い入るように見ていました。身近にあるものを使って工作して、何でも作っちゃうことが信じられなかったみたいで、海外ではノッポさんを『魔法使い』と呼ぶ方もいたそうです」
ノッポさんとの初対面で感じた印象は『プロ中のプロ』。古家さんから見たノッポさんの仕事へのこだわりは職人そのものだったという。
「『僕は一匹狼じゃなくて一匹猫なんだ』と話されて、昔からすべてお一人でお仕事を受けていました。私たちがマネジメントのお手伝いを引き受けた後も、あくまでおつなぎする形で、ノッポさん自らお相手と電話をされて、必ず対面で話を聞いてからご判断されるというスタイルを貫かれました。台本や脚本のお仕事をされていた時も、『一晩中考えて書くという姿勢がお仕事をいただいたお相手への誠意だ』と言って、徹夜で書いていたそうです。昔、『脚本のアシスタントをやりたい』と言い、家に転がり込んできた若い人に『来るもの拒まず』で居候させたそうですが、ノッポさんの気迫に付いていけず、すぐにお辞めになったそうです」
ボタン1つですぐに出てくるものは答じゃない
そんなノッポさんの原点には両親の存在があった。
「ノッポさんのお父様は、映画スターの柳妻麗三郎(やなづま・れいざぶろう)さんです。お母様は実家が両国にある相撲茶屋の超お嬢様だったそうです。ノッポさんは小さい頃から、フレッド・アステアが大好きで、お母様に作ってもらったお弁当を持って疎開先の岐阜の映画館で朝から晩までアステアのダンスシーンだけを見ていたそうで、私たちにもよく、『アステアはダンスの神様だ』と話されていました。でも、ノッポさんはお父様から演技や芸を一切教わったことがなかったそうです。ところが最近になって、お父様が26歳頃に出演された無声映画『三朝小唄』(マキノ映画製作所)が見つかったとフィルムセンターから連絡をもらい、見てみるとノッポさんが驚かれたんです」
作品には端正な顔立ちの父親がいた。ノッポさんと同じように高長身でユニークな仕草を披露していた。
「まったく教わったことがないのに、軽やかで俊敏な身のこなしを見せながら3枚目の恋の敵役を演じているお父様の仕草がビックリするくらい自分にそっくりだったので、映像を見たノッポさんはケラケラと笑っていました。そんなスターだったお父様は京都の俳優仲間が住んでいる長屋の一角で電気器具店の仕事もされ、家族を支えていたそうです」
ノッポさんも、生活のために『できるかな』と並行してさまざまな仕事に取り組んできた。だが、40代前半は悩みも多く辛い時期だったという。
「仕事に恵まれなかった若い頃、ようやくノッポさんという仕事に出会って、心底大切にされてきたのですが、42、3歳の頃は『できるかな』の他に脚本、絵本の仕事などで一見順調ではあったけれど、『自分はこのままで良いのだろうか』と相当悩んだそうです」
『できるかな』が終了すると、ノッポさんは「高見映」として活動を始めた。そして、ノッポさんを封印したことを恩師で劇作家の飯沢匡氏に伝えると、「何を言っているんですか。誰もが『一生かけて欲しい』と願う名前を貴方はもう手に入れているではないですか」と喝を入れられたという。講演会でもノッポさんの帽子を被ると、観客は大喜びした。その反応を受け、ノッポさんは「無理やり封印しなくてもいい」と気が付き、NHKみんなのうた『グラスホッパー物語』大ヒットのタイミングで芸名を「高見のっぽ」に改名した。
『グラスホッパー物語』とは、2005年12月から06年1月にかけてNHK『みんなのうた』で流れたノッポさん作詞の楽曲。全国から前代未聞の反響が寄せられ、異例の10か月ロングラン放送となった。歌詞には「孫たちよ飛んでおくれ おじいさんの願いさ」というセリフがある。そこには自らを『僕は飛び損ねたバッタ』にたとえ、職人的なこだわりと葛藤を繰り返したノッポさんの思いが込められている。
「悩んでいた40代の頃に自問自答を繰り返し、『ありのままでいいんだ』という答えが出てきた瞬間、パーっと視界が開けたそうです。ノッポさんはよく『いくつになっても遅くはないんだ』という言葉をみなさんに話されていて、『やりたいことがあれば何だってやればいいし、やらなきゃ分からないよ』と、若い人たちに声を掛けていました。『自分の誇りを失うくらいなら一度そこから離れて、力を蓄えてから戻ってくればいい。それは逃げることじゃないよ』とも。街中でノッポさんに声を掛けてくる方は、みなさん子どもの顔に戻っていて、ノッポさん『僕に会いにきたんじゃなくて、小さかった頃の自分に会いにきたんだよ』と話されていました」
ノッポさんが、晩年によく話していたことがある。
「ノッポさんはインターネットやAIに詳しくなかったのですが、相談に来た若い友人たちに『今はボタン1つですぐに答らしきものが出てくるけれど、それは答じゃないんだよ』とおしゃっていました。そして、『答はあなたの中にあるんだから』って。『あなたは小さい頃からちゃんと自分の中に答を持っているんです』と最期まで言い続けていらっしゃいました」
ノッポさんらしさが伝わってくる言葉だ。「向き合う相手は自分自身であり、考え、悩み、自ら答を導き出す行為を放棄してはいけない」という教えなのだろう。そんな言葉の数々が記されたノッポさんの著書は、多くが絶版になっている、だが、ノッポさんの魂と歩む古家さんは、それらがファンに届く方法を検討中だという。