【週末は女子プロレス♯105】堀田祐美子、56歳現役バリバリの秘訣「声って力なんだよ」10代で聞いた「コノヤロー」
今月17日に東京・新宿FACEで『デビュー38周年記念興行』を開催する堀田祐美子。現在56歳にして現役バリバリの堀田は、1985年6月5日の初マット以来、一度も引退することなくリングに上がり続けている。
17日に『デビュー38周年記念興行』を開催
今月17日に東京・新宿FACEで『デビュー38周年記念興行』を開催する堀田祐美子。現在56歳にして現役バリバリの堀田は、1985年6月5日の初マット以来、一度も引退することなくリングに上がり続けている。
38周年に大きな意味はないが、38年の現役継続は日本の女子プロレス界最長であり、日々記録を更新し続けているのだ。つまり、デビュー38周年記念とは、38年継続記念と考えた方がいいだろう。この38年間の積み重ねがスタートしたのは、ある一瞬の出来事がきっかけだった。もしもあの時、テレビのチャンネルを変えていたならば、いまの堀田はもちろん、女子プロ界も変わっていたかもしれないのだ。
体の大きなパワーファイター、近年では暴走ファイトがプロレスラー堀田のイメージだろう。小さい頃から体格はよかったものの、引っ込み思案な性格だった。そんな彼女を母親は「女の子は女の子らしく」と育ててくれた。ズボンははかず、小学校中学年まで髪は長く伸ばしていたという。プロレスは父が好きだったことから知ってはいたが、自分には遠い、無縁の世界だと思っていた。
中学高校時代、全国大会に出場するくらいのバスケットボール強豪チームで活躍していた堀田。バスケで就職との道もあったが、進路をどうしようかと迷っていた頃、試験勉強中の一瞬が彼女の将来を決定づけることとなる。
「眠れなくてたまたまテレビをつけたら、プロレスをやってたんですよ。ああ、お父さんがよく見てたプロレスね、くらいの感覚で、チャンネル変えようとしたところで女性の声がしたんですね。『キャー!』とか『コノヤロー!』みたいな。それで画面を見たら女性がプロレスしてるじゃないですか。それまで女性がプロレスするなんて知らなくて、なんで女性がと思ってちょっと見てみたら、それが長与千種さんとダンプ松本さんの試合だったんです。その試合で長与さんがメチャクチャにやられて流血して。怖いと思いながらも、いったいこれはなんなんだという感じで見てたら、最後、ボロボロにされてた長与さんが勝ってガッツポーズしたんです。その姿に、この人はいったいなんなんだろう? 私もこの人みたいに強くなりたいと思ったんです」
番組では新人募集のテロップが流れていた。これを見た堀田は弟に頼んでプロレス雑誌を買ってきてもらった。女の子がプロレスの本を買うのは恥ずかしいとの感覚があったからだ。その雑誌から長与の情報を得るとともに、次の日には全日本女子プロレスの新人募集に応募。空手のポーズを決めるクラッシュギャルズの写真を見ると空手道場に通い始め、オーディションに備えた。すべては女子プロレスラーになるためだ。
女子プロ入りに親は猛反対「これ以上男みたいになったらどうするんだ!」
当然、親には反対された。「身体が大きいから合ってるよ」ではなく、「これ以上男みたいになったらどうするんだ!」という反応だった。それでもアルバイトをして空手道場への費用を捻出。半年弱、道場に毎日通い準備をした。しかし、オーディションは通らず、プロレスラーへの道をあきらめざるを得なかった。
「そこに懸けてたのでショックが大きくて、しばらく落ち込みました。でも、それができないなら空手の道もあると考えられるようになったんですね。ここでまた弱い人間に戻りたくなかったんです。それで空手を続けたんですけど、あるとき先輩たちが、私はプロレスのために空手をしていると師範に言ってしまったんですよ。絶対に言わないでと話していたんですけど、オーディションに落ちた私の落胆ぶりから、一生懸命やっていた私を見かねて話してしまったんです」
ところが、ここで運命が好転する。空手の師範がクラッシュの写真を見たところ、「どうしてここに山崎先生が載ってるの?」と聞いてきたのだ。堀田の師範は極真空手の世界大会2連覇を達成した中村誠で、長与千種&ライオネス飛鳥のクラッシュを育てた山崎照朝の後輩だったのだ。
「『堀田さんはまだプロレスに行きたいの?』と師範から聞かれました。そこで私は、『すいません、そういう気持ちで空手をやっていました。が、もう落ちたのでこれからは空手で心身を鍛えます』と話したんですね。すると師範が『ボクが山崎先輩に話してあげるよ』と。私は遠慮したんですけど、連絡を取ってくれたようなんです」
後日、山崎から堀田のもとに電話が入った。特別にオーディションを受けられることになったのだ。そして急きょ神戸から上京し後楽園ホールで試験を受けた。再試験を受ける際、中村師範からはお墨付きを意味する黒帯を渡されていた。そして、オーディションに合格、さっそく翌日から全女に合流し、2か月後にはリングに上がるスピードデビューだった。
実際、堀田の実力は他の新人と見劣りしなかった。オーディションに落ちたのは、当時は18歳までが制限ながら、この年は団体の方針で18歳は動きを見ることなく全員落としていたというのである。
そして、堀田はいきなり長与の付け人に選ばれた。しかも日本中を熱狂の渦に巻き込んだクラッシュブームの真っ只中である。
「長与さんと初めて会ったときに、『今度入った新しい子だよね。誰のファン?』と聞かれたんですよ。私が『長与千種さんです』と言った瞬間、長与さんが笑みを浮かべたんですね。次の日から、私は長与さんの付け人になりました」
堀田が付け人になってから3か月も経たないうちに、長与VSダンプの髪切りマッチが大阪城ホールでおこなわれた。ビッグマッチや屋外を含む地方会場、日本全国クラッシュの行く先々で堀田は長与&飛鳥を護衛する役割を担っていた。と同時に、レスラーとして早くから頭角を現し始めていた堀田は長与から守られてもいたという。
「あの頃は先輩たちからのジェラシーもありました。やめる人も多いけど一番の原因は人間関係なんですよね。練習の厳しさはどうにか耐えられるけど、先輩から理不尽に怒られるとか、いまでいうパワハラやいじめは当時では当たり前。リング上で仕掛けられたこともあります。でも、そういうものから長与さんが私を守ってくれました。もしも私が長与さんの付け人をしていなかったら耐えられなかったんじゃないかな。なので、そこは本当に感謝しかないですね」
冬の時代も経験「厳しいトレーニングだけは絶対にするよう指導」
守るつもりが守られていたという堀田。クラッシュのブームが去り、団体対抗戦時代で主役の一端を担い、冬の時代も経験した。業界のあらゆる浮き沈みを体感してきたなかで、後進も育ててきた。近年ではとくに、プレイングマネジャーとしてかかわってきたアクトレスガールズの選手たちが各団体で活躍中。主要団体で闘う元アクトレスガールズの選手たちはフリーも含め、そのほとんどが堀田の指導を受けているのだ。
「いまの時代のプロレス、あんなのプロレスじゃないと言う人もいますけど、私は、いまの時代、それはそれで乗っていけばいいんだと思うんですよ。昔みたいな三禁はないし、何をやってもいいけど、厳しいトレーニングだけは絶対にするよう指導しています。それに、時代が変わっても変わらないのは気持ちなんですよ。一番大切なのは、(闘う)気持ち。その気持ちをどれだけリングの上でファンに見せられるか。ファンも、いまはいろんな見方があると思うんですよね。ファンがいま何を見に来てるのかということを考えないといけない。強さを求めるファンもいるし、自分にできないことを託すために来てるファンもいる。きれいだから、かわいいからと癒しで来てる人もいるでしょう。ファンが何を求めて何を楽しんで帰るかを考えて、その上で気持ちを出さないと」
気持ちを出すために、堀田は若い選手たちにまずは声を出すように要求する。声は力になる、というのが堀田の指導法のひとつだ。
「できなかったら声出せよ、声って力なんだよ。殴るときも声出した方が、パワーが出るでしょ。だから声出せよと、試合中にも言ってましたね」
振り返ってみれば、堀田が女子プロレスに感化されたのはテレビから聞こえた女子レスラーの声だった。あの一瞬がなければ、彼女がプロレス界に入ることはなかっただろう。そして迎えるデビュー38周年記念大会は、事実上の38年継続記念大会。堀田はメインで尾崎魔弓と組み、高橋奈七永&安納サオリ組と対戦する。
尾崎はジャパン女子デビューで、堀田の1年後輩にあたる。尾崎も引退なく現役を継続している選手だ。「私も尾崎もまだまだ頑張ってるんだよというところを見せてやろうってことですよね。私が38年なら尾﨑は37年になる。私もやめないからアンタも記録伸ばしていこう、みたいな。そういった意味から今回はタッグを組んでみたかったんですよ」
全女時代からの後輩である奈七永も、堀田には欠かせない選手のひとりだ。「私に憧れて全女に入り、いまでも憧れていると言ってくれる。彼女もいろんな修羅場を乗り越えて、いまでは女子プロ界の人間国宝と呼ばれるようになりましたからね」
そして、もう一人の対戦相手として奈七永とタッグを組むのが安納だ。安納は堀田の一番弟子。堀田がアクトレスで指導した選手のトップである。
こうしてみると、堀田の38年間すべてがこのカードに集約されていると言っても決して過言ではないだろう。すべては試験勉強中の、あの一瞬から始まったのだ。