否定されていた芸を「大切に」…上岡龍太郎さんに救われた山田雅人「忘れられない言葉があります」

元タレント・上岡龍太郎さん(享年81)の訃報を受け、上岡さんが司会の番組でサブ司会者を務めたタレントで話芸家の山田雅人(62)が3日、故人との思い出をENCOUNTに語った。山田が上岡さんから受けた「忘れられない言葉」とは。

山田雅人【写真:ENCOUNT編集部】
山田雅人【写真:ENCOUNT編集部】

5月19日の亡くなった恩師を追悼

 元タレント・上岡龍太郎さん(享年81)の訃報を受け、上岡さんが司会の番組でサブ司会者を務めたタレントで話芸家の山田雅人(62)が3日、故人との思い出をENCOUNTに語った。山田が上岡さんから受けた「忘れられない言葉」とは。(取材・文=福嶋剛)

 上岡さんは5月19日、大阪府内の病院で肺がんと間質性肺炎のため死去した。訃報が伝わったのは今月2日。山田もニュースで知った。

「もうショックで。座り込んでしばらく立てないほどショックで今も言葉が見つかりません……。新人だった20代の頃からお世話になっていて、本当に優しい方でね。僕にとっての恩人でした」

 上岡さんとの出会いは、若手芸人のコンテストだった。新人だった山田は「競馬架空実況」と題し、何でも競馬実況風にしゃべる芸を持ちネタにしていた。

 新人コンテストに出場した時、上岡さんが審査員でした。テレビ局の関係者やマネージャーからは『そんなのは芸じゃない』とか、『3分しかもたないのははダメ』と散々な言わ方で全否定されていました。そんな中、上岡さんは『君の競馬架空実況は僕は芸だと思います。そんなん僕、真似できへんもん。それは誰がなんと言おうと“確固たる芸”です。だから、3分であろうがその芸を大切にやり続けなさい。そしたらほかの芸は後からついてくるから』と言って、応援してくださったんです」

 それから数年後の1990年2月、フジテレビ系『上岡龍太郎のもうダマされないぞ!』がスタートし、山田はサブ司会者に起用された。同年10月、『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』に改題後も続投。94年12月まで上岡さんをサポートしながら番組を盛り上げた。

「演芸のゲストの方が芸を披露している間に、次の段取りを説明しようとディレクターが上岡さんに近寄ったら『人が芸をやっている間は、映っていなくても絶対にしゃべってはいけないですよ』と、芸に対してのリスペクトをスタッフに優しく教えていました」

 山田には、上岡さんから受けた「一生忘れられない言葉」がある。

「30代前半だった頃、僕不安だらけの毎日だったんです。芸の幅が広がらずすり減るばかりで……本当に不安しかなかった頃に、、上岡さんから『君は50を過ぎたら、楽になるよ』と言われました。『認められるまでは時間が掛かるけれど、君の話術を磨いていけば、50になったらきっと楽に生きていけるから、それまでは頑張りなさい』と。僕が新人だった頃に話しかけてくれたことと全く同じです。それを励みにずっと頑張ってきました」

 山田は34歳で松竹芸能を退社し、築いてきた話術を「かたりの世界」という独自の芸へと進化させた。

「2011年、立川談志さんのお別れの会で久しぶりに上岡さんとお会いしました。上岡さんは僕が『かたりの世界』をやっていることをご存知だったようで、『良かったね。あれは君しかできないものだからね。『50過ぎたら楽になる』って言った通りやろ』と。ちょうど、50歳だったんです。うれしかったですね。今年40周年なので、今年こそ上岡さんに生で舞台を見てほしいと思っていたんです。だから、本当にショックでね。まだ信じられないです。もっと生きていて欲しかった。芸人としての自信を僕に与えてくださった方です。本当に感謝しています」

 上岡さんは1942年3月20日、京都市左京区出身。横山ノックに誘われ、60年、お笑い3人組・漫画トリオの横山パンチとしてデビュー。68年にノックの参議院議員選挙出馬を機にトリオ活動が休止となり、上岡龍太郎の名前で芸能活動を始めた。ラジオDJやテレビ番組の司会をはじめ、多岐にわたって活躍し、ABC『探偵!ナイトスクープ』初代局長、読売テレビ『鶴瓶上岡パペポTV』司会者などで全国区タレントとして認知されるようになった。2000年4月、大阪松竹座での『かわら版 忠臣蔵』公演を最後に、58歳で芸能界を引退していた。

トップページに戻る

あなたの“気になる”を教えてください