「不良は娘ではない」 一度は突き放された父、教えられた人生訓 八代亜紀が守り続けるもの

『舟唄』、『雨の慕情』など多くの代表曲を持つ八代亜紀。しかし、1971年のデビュー以後、すぐにはヒット曲に恵まれなかったと語る。「捨てるものなどない」と臨んだオーディション番組で10週連続勝ち抜いた火の国の歌姫は、心を震わせる歌声で多くの人を魅了。当時はジャンルとして確立されていなかった演歌の女王としての道を切り開いた。「私は表現者ではなく、代弁者」と語る八代に、歌への思い、そして長年続けている刑務所慰問などの社会貢献についても聞いた。

ステージで歌う歌手の八代亜紀さん【写真:事務所提供】
ステージで歌う歌手の八代亜紀さん【写真:事務所提供】

歌謡界の恩師のため、新曲『想い出通り』を制作

『舟唄』、『雨の慕情』など多くの代表曲を持つ八代亜紀。しかし、1971年のデビュー以後、すぐにはヒット曲に恵まれなかったと語る。「捨てるものなどない」と臨んだオーディション番組で10週連続勝ち抜いた火の国の歌姫は、心を震わせる歌声で多くの人を魅了。当時はジャンルとして確立されていなかった演歌の女王としての道を切り開いた。「私は表現者ではなく、代弁者」と語る八代に、歌への思い、そして長年続けている刑務所慰問などの社会貢献についても聞いた。(取材・文=西村綾乃)

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 父親っ子だったという八代。プロ並みの腕前を持つ絵も、音楽を好きになったきっかけも「父親」と振り返る。

「12歳のときに父が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴いて、そのハスキーな声に魅了されました。プロフィルに『クラブ歌手』と書いてあったから、私もクラブの歌手になろうと決意したんです」

 中学を卒業後は、地元・熊本のバス会社にガイドとして就職。シャイでうまく話せず運転手に叱られたこともあった。友だちが連れて行ってくれたキャバレーでの出会いが転機になった。

「クラブとキャバレーの違いも分かっていなかったけれど、歌えるチャンスをもらえるかもしれないと聞いて、オーディションに行ったんです。年齢を隠して歌ったら『すぐに来て』と言われて、ナイトクラブで歌って父を助けるために歌って、稼ぐぞって。父には内緒でガイドを辞めて、店で歌うようになりました」

 誰にも秘密だった歌手活動。失望した父から「不良は娘ではない」と突き放された。「父のためだったとは言えず、歌も諦められなかった」。15歳で勘当同然で単身上京。音楽の専門学校で学びながら、学費を稼ぐために銀座のクラブで歌い始めた。

 スカウトをされ、71年に『愛は死んでも』でデビュー。念願のプロ歌手になったが、現実は苦しかった。

「レコードがなかなか売れなくてね。マネジャーなんていないから、1人でトランクを持って地方回りもしました。上野駅のホームで地方に向かう汽車を待っているとき、頑張ってもかなわないこともあるのかもしれないと泣いたこともありました」

 22歳の八代にアマチュアとプロが合同で参加するオーディション番組『全日本歌謡選手権』への出演依頼が舞い込んだ。アマチュア歌手はデビューを目指し、プロは再起をかける大勝負。10週連続で勝ち抜き、グランドチャンピオンになることが求められた。

「(芸名の)八代亜紀として歌い続けるのか、八代亜紀を捨てて本名に戻ってやり直すのか。分かれ目のときでした。審査員はプロには厳しいと聞いていましたが、何もかもを捨てる覚悟で出たら10週勝ち抜くことができたんです」

 73年に発表した『なみだ恋』は120万枚を突破する大ヒットに。77年には映画『トラック野郎 度胸一番星』(鈴木則文監督)でダンプ運転手役を演じ、“トラック野郎の女神”と呼ばれるようになった。79年には初の男歌『舟唄』に挑戦。80年に発表した『雨の慕情』では日本レコード大賞を受賞した。

 NHK紅白歌合戦では2年連続で大トリを務め、演歌の女王としての地位を確立。当時、華々しい活動と並行して大切にしていたのは、全国の刑務所での慰問活動だ。

「父が『人を助けられない人間は出世しない』とよく言っていました。どこの誰かも分からない小娘が歌ったレコードをたくさんの方が手にして下さった。その思いに感激して、自分にできることをさせていただこうと最初は少年院、そして女子刑務所や高齢者介護施設などを回り始めました。全国にある女子刑務所にはそれぞれ2回ずつ足を運ばせていただきました。虐待をされたり、恋人や夫などから暴力を受けた女性たちとお話をする機会もあって、歌の中の世界が現実にあることを知りました。『癒やされた』と言われたときはうれしかったですね」

 信じた男に裏切られたり、待ち続けたり。さまざまな女性の心情を歌ってきた。

「銀座で歌っていた18歳のときから、ホステスのお姉さんたちが『自分のことを歌ってくれているよう』と泣きながら聴いてくれていたの。涙を見て『これが女心なのか』と教わりました。そのときからかな。私は表現者じゃなくて、自分の経験を重ねて聴いて下さる方の代弁者でありたいと思うようになりました。歳を重ねてから『八代さんはご苦労されたんですね』と言われたことがあったんだけど、私自身はね、歌っている女性のような経験はないの。捨てられて泣き崩れたり、戻ってこないのに待っているなんてもったいない。世の中には、魅力的な人がたくさんいるんだから、『次!』って思っちゃうタイプなの」

 出世作『なみだ恋』を作曲した恩師・鈴木淳さんが2021年に死去。同曲を作詞した作詞家で鈴木さんの妻の悠木圭子が寂しげにしているのを目にして、新曲を作ることを提案。今春、悠木が書いた詞に八代が曲を付けた新曲『想い出通り』が完成した。

「鈴木先生が『なみだ恋』を作っている間、ご自宅に泊めていただき、いつでも歌える準備をしていました。ピアノを奏で始めて3日目の深夜に曲が完成しました。悠木先生のお腹の中に赤ちゃんがいたので、歌っているときに『亜紀ちゃん、今お腹蹴った』と言われた思い出があります。お2人は歌謡界の両親。だから悠木先生が落ち込んでいることが忍びなくて。完成した歌詞からは、悠木先生は鈴木先生のことをたまらなく愛していたことが分かります。愛しい人はいなくならず、心の中で生き続ける。この歌が前を向くきっかけになればうれしいです」

□八代亜紀(やしろ・あき)1950年、熊本県生まれ。71年に『愛は死んでも』でデビュー。『なみだ恋』(73年)レコードの売り上げが120万を超える大ヒットに。『雨の慕情』(80年)で「第22回日本レコード大賞」で大賞を受賞した。2010年に文化庁長官表彰受賞。フランスの国際公募展『ル・サロン展』の永久会員でもある。

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