ほいけんた、57歳でつかんだ素顔の仕事 下積み時代の支えだった母の言葉と“絶対音感”
明石家さんまのものまねで知られるお笑いタレントのほいけんたが、TBS系バラエティー番組『ララLIFE』(4月7日スタート、金曜午後11時30分)で、初めて地声のナレーションに挑戦している。ものまねを封印した低く落ち着いたトーンの語りで、正体に気がつかない視聴者も多い。57歳でつかんだ素顔の仕事。「感慨深い」と話すほいの生きざまを紹介する。
TBS系『ララLIFE』で初の地声ナレーション
明石家さんまのものまねで知られるお笑いタレントのほいけんたが、TBS系バラエティー番組『ララLIFE』(4月7日スタート、金曜午後11時30分)で、初めて地声のナレーションに挑戦している。ものまねを封印した低く落ち着いたトーンの語りで、正体に気がつかない視聴者も多い。57歳でつかんだ素顔の仕事。「感慨深い」と話すほいの生きざまを紹介する。(取材・文=福嶋剛)
ほいの父は飲食店などで演奏するバックバンド(=ハコバン)のベース奏者だった。母は美術や書道が得意。芸術系が好きな両親のもとで、3歳からピアノを習うなど幸せな日々を送っていた。だが、4歳で両親が離婚。生活は一変し、ほいは母親と祖母に育てられた。
「急に貧しくなって、幼稚園もピアノも途中で辞めました。母親が働いていたので、僕は祖母に育てられました」
小学生の頃から人を楽しませることが好きで、学校でギャグ漫画を描いたり、ザ・ドリフターズのコントを友達と再現するのが楽しみだったという。あるとき自分には“絶対音感”があることに気が付いたという。
「聴いたメロディーはドレミで言えました。中学生になって音階で話をすると、友達がポカーンとしていて、『あれ、僕だけ?』って初めて気が付きました。それからすぐにギターを始め、歌うことも得意になりました。所ジョージさんや『あのねのね』が好きだったので、ギターを弾きながら、自作のギャグソングを友達の前で披露していました」
そんなある日、テレビでカンフー映画を見て衝撃を受けた。ブルース・リーやジャッキー・チェンに憧れて独学でアクションを覚え、17歳で芸能の門を叩いた。ほいけんたの“ほい”という芸名は、『ミスター・ブー』のホイ3兄弟からだという。
「『とにかく、みんなを笑わす、楽しませる、やりたいことをやる』。それで生きていこうと決めて、高2でアクションチーム『THE EIGHTEEN ARTS』に入会しました。そこで先輩から『アクションができても、芝居ができなかったら日本ではスタントマン止まりだ』と言われ、『劇団ひまわり』で演技の勉強を始めました。母がお金を出してくれたので、『1日でも早く売れてやろう』とギラギラしていて、当時はすごく生意気なやつで、『自分は人よりも優れている』と思い込んでいました。ドラマや映画にエキストラで出演する時も、目立つためにいろいろとアピールしましたが、役者が1行のセリフ、5秒のアップをもらうことがいかに大変なことかを実感しました」
アピールの度は超え、新人ながらプロデューサーに企画を提案したという。
「武田鉄矢さんの主演映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』でいろんな場面にチョイ役で出演していた20歳の頃、撮影で半年くらい地方にいる間に、勝手に映画に合いそうな歌を作ってテープに録音しました。ある日、都内で完成発表イベントがあると聞き、無謀にもプロデューサーに『コンサートでこの曲を歌わせてください』ってお願いしました。マネジャーからは『バカなことは止めとけ』と言われましたが、企画は通りました。コンサートはTBS系で放送され、歌の場面では初めてたくさんのアップをいただき、セリフを聞かせることができました。そして、僕の名前は作曲家として紹介されていました」
ほいはこれを機に『得意なもので売れた方がドラマや映画でも良い役がもらえるのでは』と考え、劇団ひまわりを退団、役者と並行してお笑い芸人としての活動を始めた。マジックが得意だったことで、プリンセス・テンコー(二代目・引田天功)のアシスタントも数年務めた。大道芸にも興味を持ち、バルーンアートやジャグリング、パントマイムを独学で学び、それらをオーストラリアで開催されたイベントで披露すると連日の大盛況。海外のエージェントから専属契約の誘いもあったという。
「1%でも可能性があるなら、やらずに後悔するよりやって納得した方がいい。必要なのはちょっとした勇気だけで、大した労力じゃないですから」
Mr.マリックのパロディーから生まれた明石家さんま芸 関西弁のトークはマスターに16年間
その後、40歳を過ぎて明石家さんまのものまねでブレーク。本人公認で、さんまの再現VTRに欠かせない存在となった。
「20代半ば、六本木のショーパブでやっていたMr.マリックさんのパロディーコントでMr.ガァリックというキャラを演じていたのですが、髪型がおそ松くんに出てくるイヤミに似ていることから、ボケで大きな出っ歯をつけたりしていました。そして、ある日、楽屋でかつらを外した姿を鏡で見たら、『あれ? さんまさんがいる』と気付きました。それで顔まねで初めてものまね番組に出演しました。でも、東京出身で関西弁ができなかったので、さんまさんの番組を何度も見て研究しました。16年後、ようやく関西弁と話し方をマスターし、再びものまね番組に出演することができました」
昨今はフジテレビ系『千鳥の鬼レンチャン』で、絶対音感でカラオケ100点の腕前を披露している。裏声を駆使したり、オクターブ下の声で歌ったりして10曲連続で音を外さない“鬼レンチャン”を達成。ネット上では「あれは反則」「他のチャレンジャーに失礼」などと批判されるも、ヒールとして番組の大事な存在になっている。
「カラオケで100点を出す番組は、最初にプロデューサーから『歌を聴かせてほしい』と言われ、カラオケ店で100点を連続4回出して出演が決まり、本番でも100点を出して話題になったことで、『千鳥の鬼レンチャン』に繋がりましたが、ここまで注目されるとは想像していませんでした」
そして、『ララLIFE』では自身初となる地声でのナレーションを担当。文字通り、再ブレークの展開になっている。さんまのものまねで注目されるまでの下積みも長かったことで、「遅咲き」「苦労人」とも言われるが、ほいにその自覚はない。
「サンプルとしてクリス・ペプラーさんや森本レオさん風のナレーションなど、いろいろな声を録音しましたが、最終的にスタッフから『ほいさんの声、そのままでお願いします』と言われました。『僕の声でいいのかな』と思いましたけど、感慨深かったですね。振り返ると、事務所運が悪くて所属やフリーを繰り返すなど、いろいろありましたけど、仕事に困ったことはありません。トークと芸がありましたので、いろいろな人からお仕事をいただいたり、ショッピングモールに定期的に呼んでもらったりと、人との繋がりで楽しみながらやって来られました」
だが、スタート地点で背中を押してくれた母親には深く感謝している。
「母子家庭で育ち、『就職しないで劇団に入りたい』と言ったら、『あんたが好きだと思うことやりなさい』と応援してくれました。大病を克服し、80歳を超えましたけど、昔から僕の一番のファンです(笑)。今は毎日が恩返しで、たまに一緒にカラオケに行って100点を見せたりもしています」
若い頃は、周りから『器用貧乏』と呼ばれたという。だが、今は違う。
「いろんな芸を1つ1つ磨いていったら、生活も心も豊かになりました。やることが多くて忙しいですけど、やりがいのある濃厚な時間を過ごしています」
高校時代に誓った「とにかくみんなを笑わす、楽しませる、自分がやりたいことをやる」は、今も守り続けている。親孝行も含め、ほいは日々を全力で楽しんでいる。
□ほいけんた 本名・塩田謙一。1965年7月7日、東京・中野区生まれ。都立日野高卒。83年、役者デビュー。数々のドラマ、映画、CM、舞台などに出演し、明石家さんまのものまねをはじめ、マジック、パントマイム、バルーンアートなど、バラエティーに富んだ芸を持つ。182センチ、85キロ。血液型O。