【オヤジの仕事】“クラシック界のエリート”バイオリニスト・古澤巖さんが語る“今だからできること”

最新CD「Violon d’a mour ヴィオロン・ダムール」
最新CD「Violon d’a mour ヴィオロン・ダムール」

実家はレコードの重さで床が抜けた

 僕はバイオリニストですが、雅楽の東儀秀樹さんと競演したり、それまでクラシック・コンサートで演奏してはいけないとされていたモンティの「チャールダーシュ」を、葉加瀬太郎クンと一緒にステージで演奏したりしてきました。やっちゃいけないことや変わったことをしようとしたわけではなくて、純粋に「素晴らしいミュージシャンだ」「これはステキな曲だ」と思ったからなのですが、そんなふうに新しいことに挑戦してこられたのは、父親の影響があったと思います。父は僕が子供の頃、シンフォニーやらバイオリン曲、映画音楽、ムード歌謡……演歌以外はありとあらゆる音楽を聴いていて、僕も聴かされて育ちました。うちには父親が集めたLPレコードが何千枚もあって、重みで床が抜けてしまったほどだったんです。

 そう言うと僕がお金持ちのお坊ちゃんなのか、と思うかもしれませんが、ごくごく平凡な家庭で育ちました。母が夜なべをしてタイプライターを打って、僕にバイオリンを続けさせてくれたんです。父はもともと長崎・佐世保の海軍の軍人でした。戦地に行かないまま18歳で終戦を迎え、戦後、佐世保の“お嬢様”だった母と結婚して上京し、僕と1歳下の妹は東京で生まれました。上京後、父は化粧品会社「ポーラ」の関係の会社に勤めていましたけど、どんな仕事をしていたのか詳しいことは聞いたことがないですね。ただ、夕食時は必ず家にいて、家族で一緒に食卓を囲んでいました。

父親が亡くなると、自分の姿に父親が見えるように

 いわゆる昭和の頑固おやじで厳しかった。母親のことが好きで好きで結婚したので、母親を怒らせたり、悲しませたりするとぶん殴られていました。趣味が音楽で、立派なステレオセットを買って、大きなスピーカーを使って大音量で何時間も聴いていました。子供部屋の二段ベッドにも小さなスピーカーをくくり付けて僕らに聴かせていたので、僕ら兄妹は父親の聴く音楽を聴きながら眠りについていたんです。それで幅広いジャンルの音楽が、僕の中に刷り込まれたのだと思います。

 父親は2011年の東日本大震災の年、しかも母親の誕生日に、84歳でなくなりました。父親が死の床に臥せていたとき、母親はずっと病院に寝泊まりして看病していました。そして、父は母がトイレにいった隙に静かに息を引き取りました。愛妻家の父にとっては幸せな最期で、長生きもしたし、いい一生だったんじゃないかなと思います。父親が亡くなった後、鏡の前に立つと「オヤジに似てる!」と思うようになりました。それまで僕は母親似だと思っていたのに。不思議なもんですね。

□古澤巖 (ふるさわ・いわお)1959年7月11日、東京生まれ。3歳でバイオリンを始め、桐朋学園大学在学中、日本音楽コンクール第1位に。大学を首席で卒業後、文化庁給費留学生として米カーティス音楽院留学。1984年、伊ミケランジェロ・アバド国際バイオリン・コンクール優勝。カーティス音楽院卒業後、オーストリアのザルツブルク・モーツァルテウム音楽院で学び、1987年帰国。東京都交響楽団ソリスト兼コンサートマスターなどを歴任するほかCM、ドラマなどでも活躍するように。2018年から洗足学園音大客員教授。5月13日「Violon d’a mour ヴィオロン・ダムール」(ハッツ・アンリミテッド)リリース。

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