日本復帰のSareeeが激白、WWEと再契約をしなかったワケ 自主興行で見せる「本当の“闘い”」
去る3月13日、東京・銀座にある猪木元気工場(IGF)で、1人のプロレスラーが会見を行った。女子プロレスラーのSareee(サリー)である。Sareeeといえば、つい最近まで「SARRAY(サレイ)」のリングネームでWWEのリングで活動していたが、この度、約2年ぶりに帰国。この日、自主興行「Sareee ISM」(5月16日、新宿フェイス)を開催する旨を発表した。
自主興行「Sareee ISM」を5・16に開催
去る3月13日、東京・銀座にある猪木元気工場(IGF)で、1人のプロレスラーが会見を行った。女子プロレスラーのSareee(サリー)である。Sareeeといえば、つい最近まで「SARRAY(サレイ)」のリングネームでWWEのリングで活動していたが、この度、約2年ぶりに帰国。この日、自主興行「Sareee ISM」(5月16日、新宿フェイス)を開催する旨を発表した。
しかも会見の冒頭でSareeeは「今回、私は日本に戻ってきまして、“闘い”を見せていきたいと思います」と高らかに宣言。わざわざ“闘い”を口にするとはいったいどういうことなのか。会見後、Sareeeにその真意を直撃した。
まずはSareeeに、古巣だったWWEについて水を向けてみる。
「WWEはホント世界一の団体なので、さすがだなーという感じでしたね。入場ゲートからはじまり、(紹介)映像含め、何から何まで、パフォーマンスセンターっていうところで、毎日練習させてもらっているんですけど、その場所の設備も最高でしたね」
契約期間は3年あったが、コロナ禍のため米国への入国ができない期間が約1年あった。そのため結果的に米国には2年間滞在しながらWWEのリングに上がっていた。その間、Sareeeについたキャッチフレーズは「ウォリアー・オブ・サン(太陽の戦士)」。WWEにとって選手のキャッチフレーズは各々のキャラクターに通じている。Sareeeもそのキャラを意識しながらリングに上がっていたのか。
「私は自分のままを出していました。HHH(トリプルエイチ)さんにつけていただいたので、それは光栄でしたし、その名前に負けないくらいに頑張らなければ、という気持ちでした」
実際、WWEとの再契約の話もあった。それでも帰国し、日本で大会を開催する道を選んだ。その理由をSareeeはこう答えた。
「WWEで学ぶべきことは(ひと通り)私は学んだなと思うんですね。私は今、自分の中では旬な時期だと思っていますし、プロレスラーとして一番動ける時期だと思うので、一番いい時期に、私自身がやりたいプロレス。“闘いたい”って思ったのが一番ですね」
結果、Sareeeは日本への帰国を決め、さらに再出発の場を自主興行のリングに決めた。「この選手とやりたいと決めた選手は?」と問うと、それほど間を置かずに「いますね、はい」とSareeeは返答した。
忘れられないアントニオ猪木からの言葉
実はSareeeの父親は大のアントニオ猪木ファンだった。そのため、幼い頃から父親に多大なる影響を受けて育っていく。
「(父親から)猪木さんは最強ですごい人だということは聞いていて。例えば、朝起きるとき、目覚まし時計は猪木さんのテーマ曲(炎のファイター)なんですよね。それと『道』っていう猪木さんの詩があるじゃないですか。それはもう暗記してますね。小さいときには父がずっと(その映像を)流していたので。自然ともう入ってきます」
そしてSareeeはこう続けた。
「大人になってからあの『道』を見ると、すごくジーンと来るというか、頑張ろうって思えるような素晴らしい、猪木さんの言葉だなあとホントに思って、今は心の支えというかになってますね」
「この道を行けばどうなるものか」ではじまり「行けばわかる」で終わる「道」の詩は、Sareeeに限らず、多くの人たちが少なからず何かを感じるきっかけづくりになっている。
「『この道を行けばどうなるものか…』って、ホントに行ってみないと分からないってことですよね。だから迷っているんだったら行けってことだと思うので、私もアメリカに行ったり、いろんなことに迷ったりして、決断のときってあるじゃないですか。例えばWWEからオファーをいただいて、向こうに行くってこともそうだし、それに対しても不安はあるに決まっているし、どうしようかなっていうのもあるし」
もちろん、帰国すると決めることにしてもそうだ。
「こうやって日本に戻ってきて、こういうふうにやるのもそうですし、いろんな迷いがあるなかで、自分がピンと来たものって、そのときしかできないことだし、行かないと分からないので、そういう猪木さんのお言葉を信じてじゃないですけど、自分も行こうって。行ってみなきゃ分からないっていう、迷わないで、自分でやりたいって思ったことはやろうって背中を押していただいているっていうのもありますね」
実際、アントニオ猪木には何度か直接会って話を聞かせてもらったこともある。先日の会見の際には、渡米前に猪木と会ったことを話していたが、その際には「自分を信じて頑張ってきな」(アントニオ猪木)と言葉をもらったことに加え、「『赤、似合うよ』って言ってもらって、とてもうれしかったです」と明かしていた。
「猪木さんはすごく自分のなかで大きいですね。実際、深く関わらせていただいわけではないので、どこまで言っていいのか分からないんですけども、ホントに後押しをしていただいています。猪木さんの言葉とか歩んできた道っていうのものに。それと赤を伝授してもらったのかなと思っています、はい。認めていただいたっていう」
先日の会見は、そんな縁もあって、猪木元気工場で行われることにつながっていった。
Sareeeが考える理想の試合とは
「プロレスなので、私は“闘い”だと思うんですね。なので、キレイとかわいいとか、いいですよ。もちろんそれもいいんですけど、その前にしっかりと“闘い”をやった上で、そういうことをやっていかないと。うそはあとからバレてしまうので。しっかり私が“闘い”っていうものを日本の女子プロレス界に。(日本に)帰ってきて、しっかり見せていきたいと思っています」
先日の会見上、Sareeeはそう口にしていたが、この発言から、最近また盛り上がりを見せ始めた女子プロレス界の流れに対し、100%肯定できない思いを持っていることは伝わってきた。その真意をSareeeが明かす。
「どう見ても女子プロレスは全体的に盛り上がってきているし、それは素晴らしいと思うんですよ。でも、もっとそれにプラスして、“闘い”とか熱い思いっていうものをもっともっと出していけば、日本の女子プロ界はもっと盛り上がると思うし、自分もそこに関わっていきたいし。それにはやっぱりプロレスなので、エンターテインメントもいいかもしれないけど、もっともっとみんな、“闘い”をやっていかなければ、そこまでになってしまうのかなと思うので……」
そう言って繰り返し“闘い”を連呼するSareee。ならばと聞いてみた。自分の理想の試合は?
この問いに対し、Sareeeは「私は全日本女子プロレスのプロレスはすごい“闘い”だと思って、憧れていたので」と即答したが、「例えば、どの試合を?」と訊ねると、「全女の皆さんは命をかけてリングに上がっていた(ことが伝わってきた)し、すべてを懸けて、どうなろうがいいっていう気持ちで上がっていたというか、試合をされていたと思うんですけど、伊藤薫選手だったり、井上京子選手とか」と答え、続けて「私の師匠でもあるので」と話した。
女子プロレスといえば、1970年代にはビューティーペア、80年代にはクラッシュギャルズ、そして90年代には禁断の団体対抗戦が頂点を迎え、東京ドーム(94年11月20日)大会が開催されたこともある。90年代の女子プロ界を支えた人物の一人が、井上であり伊藤だった。
さらに言えば、その時期にもっとも話題を集めた“闘い”こそ、北斗晶VS神取忍だった。どれだけすごい“闘い”だったのかといえば、今のご時世、当時の北斗VS神取戦は地上波で流せないレベルの大流血を含めた、ど迫力ファイトといえばいいのだろうか。
Sareeeにその話を伝えると、「私は生まれたのが96年なので……」と言いながら、映像で北斗VS神取戦を確認し、「すごい試合でしたね」と答えた。
おそらくSareeeが令和の今、当時の北斗VS神取戦の領域にまで踏み込む“闘い”ができる相手と巡り会えれば、今の女子プロレス界の流れを変える可能性が見えてくるかもしれない。
そんな期待を込めつつ、Sareeeに話を聞いていくと、「(私が求めるのは)伝わるプロレスですね。感情をどんどん出していくような……“闘い”ですね、はい」と答え、独特の笑顔を見せた。
「プロレスは闘いである」
生前、アントニオ猪木は「プロレスとは何か?」という根源的なテーマに対し、必ずそう答えてきた。それがアントニオ猪木のアイデンティティー(存在証明)であるかのように。
果たしてSareeeがそれを受け継ぐ者の1人となれるのか。決してそう簡単な話ではない気もするが、まずはその覚悟を確かめるためにも、「Sareee ISM」に足を運んでみてはいかがだろうか。