坂本龍一さん追悼、コンサートで居眠り…叱られる覚悟の記者がかけられた忘れられない言葉
音楽家の坂本龍一さんが3月28日に71歳で死去した。4月2日に日本で坂本さんのマネジメントを務めている「キャブ」、「エイベックス・エンタテインメント株式会社」が発表した。死因は明らかにされていないが、2020年6月に直腸がんが見つかり、21年1月に手術。両肺などにも転移しステージ4と公表していた。葬儀は近親者のみで営まれたといい、故人の遺志によりお別れの会は行わない。
「わたしたちの音楽は続きます」 音楽監督を務めるオーケストラが哀悼
音楽家の坂本龍一さんが3月28日に71歳で死去した。4月2日に日本で坂本さんのマネジメントを務めている「キャブ」、「エイベックス・エンタテインメント株式会社」が発表した。死因は明らかにされていないが、2020年6月に直腸がんが見つかり、21年1月に手術。両肺などにも転移しステージ4と公表していた。葬儀は近親者のみで営まれたといい、故人の遺志によりお別れの会は行わない。
息を引き取る2日前には、東日本大震災で被災した東北3県(岩手、宮城、福島)の子どもたちを音楽でつなごうと結成した「東北ユースオーケストラ」の演奏をオンラインで見守った。ステージでは、直接指導をしたこともある13歳から25歳までの奏者が、同団のため坂本さんが、20年1月に書き下ろした『いま時間が傾いて』などを演奏。13分の曲に込められた祈りと鎮魂の思いを受け止めた坂本さんは、終演後に「Superb! Bravissimo 素晴らしかった!! よかったです。みんなありがとう。お疲れ様でした♪」とスタッフを通じて感想を送っていた。
昨年は東京・サントリーホールで同団と音を合わせていたが、今年はかなわなかった。訃報に同団は、公式サイト内で「東北ユースオーケストラの坂本龍一代表・監督のご逝去のお知らせを受け、過去現在の団員、一般社団法人の関係者、個人法人の支援者の皆様とともに、深く哀悼の意を捧げます。これまで導いてくださり、どうもありがとうございました。坂本監督無くしてあり得なかったオーケストラ。わたしたちの音楽は続きます。合掌。R.I.P.」とメッセージを掲載している。
3歳で始めたピアノ 米同時多発テロを目撃した体験などが創作や思想に影響
坂本さんは1952年1月17日、東京・中野で生まれた。父の一亀(かずき)は作家の三島由紀夫らを世に送り出した伝説の編集者。母の敬子は帽子のデザイナーをしていたモダンな女性だった。幼少期にフェデリコ・フェリーニがメガホンを取った映画『道』を母と鑑賞したことが、芸術や音楽などに興味を持つきっかけになった。
ピアノを始めたのは、3歳のとき。初めて作詞・作曲をしたのは、幼稚園で飼育していたうさぎをモチーフにした『ウサちゃんの歌』だった。小学校進学後には、自身が左利きだったこともあり、左手と右手が同等に扱われているバッハの作品に夢中になった。
バスケットボール部に入部した中学時代は、ピアノと離れた時期もあった。しかし鍵盤に背を向けていた半年ほどの間に、ピアノや作曲への熱が再燃。作文に「作曲家になろうと思います」としたためたほど、強い思いが芽生えていた。中学2年生のときに出合ったドビュッシーには雷に撃たれたような衝撃を感じ、自らをドビュッシーの生まれ変わりなのではないかと思っていたほど。曲を聴き構造を確かめる時間は、作曲家・坂本龍一の源流のひとつになった。
東京都立新宿高校では、学生運動にも参加。東京芸術大学に進学すると、サンダル履きのむさくるしい風ぼうが、水島新司の野球マンガ「あぶさん」の主人公を思わせると「アブ」のあだ名で呼ばれるように。大学在籍時に、スタジオミュージシャンとしての活動をスタートした。
78年に細野晴臣、高橋幸宏と結成した音楽グループ、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)では、コンピューターやシンセサイザーを駆使した『東風(Tong Poo)』などの楽曲で世界を圧倒した。同年10月にはアルバム『千のナイフ』でソロデビュー。音楽家としてはもちろん、俳優としてもその才能を発揮した。大島渚監督がメガホンを取った『戦場のメリークリスマス』では、英国のロックスター、デビッド・ボウイと男性同士で交わしたキスシーンも話題になった。
同作のために書き下ろした『メリー・クリスマス ミスターローレンス』では、日本人として初めて英国アカデミー賞で作曲賞を受賞。『第36回カンヌ国際映画祭』で出会った、ベルナルド・ベルトルッチ監督に依頼され制作した映画『ラストエンペラー』(87年)の楽曲は、アメリカのアカデミー賞、同グラミー賞などで評価された。
90年4月にアメリカ・ニューヨークに移住。何人でもないひとりの人間として解放された一方で、ルワンダ紛争や湾岸戦争などで国に漂っていた緊張感を肌で感じるように。アメリカ人の仕事仲間が予備役招集され戦地に赴くなど、近づく戦争のにおいは、創作や思想に影響を与えるようになった。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロを、自宅で目撃。反戦への思いは情報交換をしていた仲間の声を集めた論考集『非戦』の出版につながった。ペシャワール会現地代表で医師の中村哲、Mr.Childrenの桜井和寿らが言葉を寄せ、坂本自身は『報復しないのが真の勇気』と記していた。
14年に中咽頭がんで闘病していたが、治療の末に寛解。20年6月にニューヨークにて直腸がんの診断を受け、転移巣の摘出を含めて手術を受けたことを翌年1月に公式サイトで明かした。22年6月には「ステージ4」であり、両肺に転移したがん摘出手術を前年に受けたことなどを公表していた。
22年9月に東京・渋谷にあるNHKの509スタジオで8日間をかけて行った映像収録が、最後の公の場になった。12月に配信した映像には、ピアノ1本での表現を追求した坂本さんの姿を見ることができる。
ジョークが大好き 愛らしい少年のような人
記者が初めて坂本龍一さんの単独取材をしたのは、09年1月27日。3月にリリースするアルバム『out of noise』のインタビューだった。扉を開くと、ソファに深々と腰かける坂本さんの姿があった。あふれる存在感に体中に緊張が走ったが、アルバムの話を始めると、北極圏などで集めた音について楽しそうに話してくれた。
シンセサイザーを封印したアルバムでは、ピアノや弦楽器と北極圏で採取した氷河が溶ける海中の音、犬ぞりをひく犬の鳴き声など自然の音が散りばめられていた。集めた音のかけらを組み立てて行くのは「生け花をいけているような楽しい時間だった」と説明。楽曲の中には、「最近は、温暖化で氷が張らなくなってしまった」という意味を持つイヌイットの言葉を収めるなど、環境への強い思いも含ませていた。
印象的だったのは、「人の声も、雑踏も、物を落とす音も『みんな音楽』。だから、『君が話している声も音楽になるんだよ』」という言葉だった。「雨の音、風の音、無限の素材が転がっている」と弾ませた声に、少年のような純真さを感じた。「僕の原動力は探求心」。キラリと光る瞳がまぶしかった。
この頃、服飾メーカーのコム・デ・ギャルソンが赤塚不二夫さんとコラボレーションしたシャツを集めることを趣味にしていた坂本さん。記者は少しでも話題になればと、コンバースと天才バカボンがコラボしたスニーカーを履き現場に行った。取材の最後に、スニーカーを見せると「いいなぁ」と一声。その後、「僕はこれ」と、ジャケットの裾を広げ、「おそ松くん」の顔がプリントされたTシャツをチラリと見せてくれた。
窓際で行った写真撮影では、通りの向かい側に、福山雅治さんの看板があるのを見つけると、「福山くんと一緒に撮らないでね」と笑った。気さくで飾らない素顔に引き込まれた。
コンサート後に楽屋にお邪魔にしたときは、「眠った?」と聞かれたこともあった。締め切りに追われる毎日。照明が落とされた会場で、一瞬眠ってしまっていた記者は、叱られることを覚悟で「はい」とうなずくと、坂本さんは「心地いい音楽っていうのはね、人を眠らせるんだよ」とほほ笑んでくれた。
早すぎる旅立ちを知った夜は眠れなかった。坂本さんが空に飛び立った3月28日、東京は雨が降っていた。涙雨だったのだろうか。満開だった桜を目にすることができただろうか――。私にはやってきた29日、30日が坂本さんにはなかったことなどを思うと、ため息ばかりがもれた。
昨年3月に東京・サントリーホールで行われた「東北ユースオーケストラ」とのコンサートが、生の演奏を聴いた最後だった。涙があふれそうになったとき、道端のつくしが目に入った。青空に向かい背比べするように伸びるつくしは、東北ユースオーケストラの奏者のように見えた。最後に手掛けた楽曲が徳島県の高専の校歌だったことは、未来をつくっていく若者を思う坂本さんらしいものだと感じた。
涙を引っ込めて歩き始めた後、路上でスティールパンを使って「メリー・クリスマス ミスターローレンス」を弾く人と出会った。演奏に耳を傾ける人たちを見て、坂本さんが好きだったという一文「Ars longa, vita brevis」(芸術は長く、人生は短し)を思い出した。肉体はなくなっても、坂本さんが遺した音楽、思いは続いていく。いただいたたくさんの温かさを忘れずに、受け取った種を芽吹かせていきたい。