【週末は女子プロレス #88】欧州地下プロレスからスターダムの人気レスラーへ テクラが最も影響を受けたグレート・ムタ
かつてドイツ、オーストリアのドイツ語圏ではオットー・ワンツ率いるCWAが一大帝国を築き上げ、キャッチと呼ばれるプロレスが盛んだった。グラーツでスタートしハノーバーなどを経由、ブレーメンでゴールするという、一都市長期滞在で両国を縦断する興行スタイルは欧州プロレスの風物詩で、新日本プロレスから多くの若手が武者修行したことでも知られている。
オーストリア出身のテクラはなぜ日本でプロレスラーになったのか
かつてドイツ、オーストリアのドイツ語圏ではオットー・ワンツ率いるCWAが一大帝国を築き上げ、キャッチと呼ばれるプロレスが盛んだった。グラーツでスタートしハノーバーなどを経由、ブレーメンでゴールするという、一都市長期滞在で両国を縦断する興行スタイルは欧州プロレスの風物詩で、新日本プロレスから多くの若手が武者修行したことでも知られている。
しかし、21世紀の到来とほぼ同時期にCWAは活動停止、欧州のプロレスは壊滅状態となってしまった。それでも小さなインディー団体や地下プロレスが細々と活動を続け、現在スターダムで活躍するテクラは、地下プロレスを偶然発見。芸術を学ぶ学生から日本でプロレスをするという運命の急展開を体験することとなったのだ。
「ハイスクール卒業後、18歳か19歳のときにウィーンのライブハウスで『ロックンロールレスリングバッシュ』というイベントがあったの。ロックコンサートのノリで友人たちと見に行ったら、実際はプロレスの試合だったのね。それまでプロレスって一切知らなかったんだけど、一瞬でとりこになった。私だけじゃない。一緒に行った友人は男女とも『オレはレスラーになるぞ!』『私もレスラーを目指すわ!』って、みんな大興奮。私もその中のひとりだった。だけど、翌日にはみんな怖がっちゃって。結局、練習に行ったのは私だけだったのよ(笑)」
当時、映画『第三の男』で知られるウィーンの遊園地プラーターでアルバイトしていたテクラだが、プロレスラーになろうと地下プロレス団体でトレーニングを開始し、17年6月にデビュー。翌年にはコーチのヒューマンガスに勧められ初来日を果たした。また、全身タトゥーのヒューマンガスを通じ日本のプロレスも知った。さらには先輩レスラーのチャベラが19年4月から約1か月アイスリボンに参戦。彼女の推薦もあり、テクラは日本の女子プロレスを学んでみたいと考えたのである。
大学では芸術を専攻し、パンクバンドでも活動していたというテクラだが、一念発起し日本にやってきた。19年7月27日の日本デビュー戦は彼女にとってまだ4試合目だったものの、一発で日本のプロレスを気に入った。
「ナーバスからラブに転じた一瞬ね。あれからジャパンが大好きになって、レスリング以外でもジャパンのカルチャーをたくさんエンジョイしたわ。落語、浮世絵、それからジャパニーズアート。ジャパンへの興味とレスリングをコンバインできるんじゃないかと考えたの」
ここから8月まで参戦し、帰国後はROEで欧州プロレスでの“地上”初登場。翌20年2月にはWUW女子王者として再来日を果たした。このときは3月に帰国予定だったのだが、新型コロナウイルス感染拡大の影響により出国できないアクシデントに見舞われた。空港まで行き多方面に問い合わせるも、足止め状態に……。
「母や友人に電話したり、空港スタッフや知らない人にまで相談したわ。どうしたらいいか考えるうちに、このまま残ってもいいんじゃないかと思うようになって。ドージョーに住めば練習はできるから、もっともっとジャパンのプロレスが勉強できる。むしろこれってチャンスじゃないかなって」
アイスリボンに相談し、テクラは滞在の延長を決めた。その上、アイスリボン入団まで決定。所属選手として日本の女子プロレスをとことん味わうことにしたのである。試合数の多いアイスリボンで、テクラはさまざまな選手と対戦したりタッグを組んだ。また、プロレスに集中できる環境を最大限に利用した。
「あの時期はみんなステイホームだったけど、私にはド―ジョーがホームだったから、毎日毎日、外出もできずにトレーニング漬けの日々を過ごせたの。起きたらド―ジョーに行って練習して、食べて寝ての繰り返し。部屋ではプロレスの映像を見まくったわ。私は70年代や80年代のオールドスクールのプロレス、たとえばリック・フレアーとかリッキー・スティムボートが好きで、こういったプロレスを見ていくうちに発見したのがグレート・ムタ。いまのスタイルでもっとも影響を受けているのがムタなの。それに、TAJIRIさんの影響を受けているわね」
そう言われれば、トキシックスパイダー(毒グモ)のキャラクターは確かにムタやTAJIRIの影響を受けているようにも感じられる。テクラのプロレスはほとんどが日本での試合で、そこにオールドスクールなアメリカンプロレスがブレンドされているのである。
スターダム参戦から1年「まるでハリケーンの中にいるような感覚ね」
日本に定着し経験を積んだテクラは、21年11月でアイスリボンを退団、翌22年1月にはスターダムに新天地を求めた。元同僚のジュリアに呼び込まれる形で、ドンナ・デル・モンドの一員となったのである。
「ジュリアとの再会はデスティニー。19年にアイスリボンで出会ってからの関係よね。最初は言葉の壁でコミュニケーションを取るのに苦労したけど、なんとか意思を伝え合おうとしているうちに仲良くなったの」
ジュリアのユニットに参加したテクラ。しかしその後、元アイスリボンの世羅りさ率いるプロミネンスがスターダムに殴り込み。プロミネンスとは敵対関係になった。
「プロミネンスとの再会もまたデスティニーだと思ってる。とくに鈴季すず。ジュリアとすずの固い絆をアイスリボンで見てきたし、私とすずの関係も特別だと思っているわ。彼女とは一緒に練習もしたし、ユニークなユーモアの持ち主。楽しんだことも多いけど、いざ対戦となるとハードヒッティング。レスリングはコンペティションだから当然よね。だからいまの立ち位置ではライバル。すずを筆頭に、プロミネンスはみんなライバル」
テクラがスターダムに参戦してから1年が経過した。約5か月に及ぶ欠場があったため実感には欠けるというものの、かつてないほど流れの早い1年だったと、スターダムマット参戦からの時間を振り返る。
「スターダムのリングに上がって、いろんなものが一気に押し寄せてきた感じかな。まるでハリケーンの中にいるような感覚ね。ミナシラカワ(白川未奈)とSWAのベルトを懸けて闘い、ベルトを取って落とした。AZMのハイスピード王座にも挑戦した。ケガをしてリーグ戦(5★STAR GP)に出られなかった。欠場中、なつぽいがDDMを離脱したのも大きな出来事。決して親密ではなかったけど、同じユニットになって特別なケミストリーを感じてたし、これからそうなるんだろうなと思ってただけにショックが大きくて……。それに、SWAが空位になったのも納得できない」
テクラにはSWA世界王座に特別な思い入れがある。すでに地下プロレス、アイスリボンでベルトは巻いていた。それでも、これらとはまた違う大きな意味があったとテクラは言う。
「いままでのベルトとは違ったの。ベルトに恋したっていうのかな。あのベルトを見て、あのベルトを巻いて、自分に誇りが持てた。私はあのベルトを取るために汗をかき涙を流し、マユ(岩谷麻優)さんに負けた試合では脳震とうも起こした。頭を打って自分がどこにいるのかわからなくなっていたの。なにが起きたのか理解できなくて30分くらい無心で座っていたんじゃないかな。あんなに大好きなベルトだったのに、空位になるなんて。だから私が取り戻したい。取り戻して、もう二度と手放したくない。SWAを重視する人は少ないかもしれない。そんなベルトをみんなが気にかけるようなベルトに戻したいの」
現在はジュリアとのマフィアベラ、ジュリア&桜井まいとのバリバリボンバーズでチームプレーを優先している感のあるテクラだが、内心ではやはりシングルのベルト、特にSWA世界王座を再び巻きたいと考えている。さらに、負けた相手へのリベンジもまた大きなモチベーションとなっているようだ。
「マユ、AZM、スターライト・キッドもそう。ミナシラカワには複雑な思いもあるけど、彼女との決着もまたアンフィニッシュドビジネス(やり残したこと)。これがたくさんあるからこそ、将来どうなるかわからない。とにかくスターダムはいろんなことがものすごいスピードで起こるからクレイジー。いま見てるものとはまったく違う未来になるかもしれない。トキシックスパイダーからある日まったく異なるキャラクターになってるかもしれないしね。たとえどうなっても対応できるように、準備しておかなければいけないわね」