「鮎川誠さんは驚くほどの記憶力」 数多く取材をしてきたライターが明かした素顔

鮎川誠さんが膵臓(すいぞう)がんのため亡くなった。昨年5月にがんが発覚し、余命5か月程という宣告を受けたが、周囲に心配をかけたくないという本人の強い思いで公表しなかったという。2015年のバレンタイン・デーに亡くなられたシーナさんも子宮頸がんであることをファンに公表せず、治療よりも歌うことを優先して活動を続けたものだったが、鮎川さんもライブを続け、昨年12月19日(亡くなられる40日前だ!)には京都・磔磔で行なわれた三宅伸治&the spoonful公演にゲスト出演して普段と変わらずバリバリ弾いていた。亡くなられたのは1月29日午前5時47分で、享年74。旅立った時間(分)と齢にも「シーナ」が刻まれたのは偶然じゃない気がしてしまう。

最期まで1本1本のライブに全身全霊をかけていた【写真:本多元】
最期まで1本1本のライブに全身全霊をかけていた【写真:本多元】

家族、日常を大切にしてきた愛の人

 鮎川誠さんが膵臓(すいぞう)がんのため亡くなった。昨年5月にがんが発覚し、余命5か月程という宣告を受けたが、周囲に心配をかけたくないという本人の強い思いで公表しなかったという。2015年のバレンタイン・デーに亡くなられたシーナさんも子宮頸がんであることをファンに公表せず、治療よりも歌うことを優先して活動を続けたものだったが、鮎川さんもライブを続け、昨年12月19日(亡くなられる40日前だ!)には京都・磔磔で行なわれた三宅伸治&the spoonful公演にゲスト出演して普段と変わらずバリバリ弾いていた。亡くなられたのは1月29日午前5時47分で、享年74。旅立った時間(分)と齢にも「シーナ」が刻まれたのは偶然じゃない気がしてしまう。(文=内本順一)

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 1978年開催の第6回目から実に44回も連続出演していた大みそかの「ニューイヤーロックフェスティバル」に初めて出られなくなったのは、さぞかし悔しい思いだっただろう。だが療養し、復帰する意志を持たれていたはずで、だから2月6日に予定されていた頭脳警察との2マンライブ出演が取りやめになったのもつい最近のことだった。「死ぬまでロックだぜ」とはよく言っていたけれど、本当にそれを体現した人がこれまでいただろうか。ライブというものに対する圧倒的なまでの強い思いが伝わってくる。

 めんたいロックを陰で支え、「6番目のサンハウス」とも呼ばれた松本康さん(福岡の輸入レコード店JUKE RECORDSの創立者)が昨年9月28日に肝細胞がんで亡くなられた。日本とロンドンで何度も鮎川さんとセッションし、2013年にがんを公表したときにも鮎川さんを頼って日本に来たウィルコ・ジョンソンが昨年11月23日に膵臓(すいぞう)がんで亡くなられた(鮎川さんはその訃報を結成45周年記念日ライブのアンコール前に聞いた)。そしてシーナさんのボーカルの魅力とバンドのユニークさをいち早く評価して細野晴臣さんに紹介した高橋幸宏さん(それが細野プロデュース、YMO全面参加の『真空パック』につながった。故に鮎川さんは「幸宏は最初の大恩人」だと話していた)が今年1月11日に誤嚥性(ごえんせい)肺炎で亡くなられた。歳の近い親友や恩人の訃報を立て続けに受けてさぞかしお辛かったことと想像するが、それでも鮎川さんは「死ぬまでロック」の思いを持ち続けたのだろう。「自分が死ぬまでの間に1本でも多くライブをやりたい」。その1本1本に全身全霊をかけていたのだと、今改めてそう思う。

 悲しみと、そして感謝の気持ちがSNS上にあふれている。自分にも声をかけてくれた、名前を呼んでくれた、優しく接してくれた、といった「ありがとうございました」の書き込みが、たくさんのミュージシャン、たくさんのファンからなされている。決して偉ぶらない。上下や立場で分け隔てをしない。いつも穏やかで、あたたかくて、だから年齢や職業関係なく、鮎川さんを知る人みんなが鮎川さんのことを大好きだった。もちろんライブを通してもその人柄は伝わってくるが、直に接するとなおさら優しさを感じることになる。自分は何度かのインタビューでそれを感じていた。鮎川さんは、記事にしてシーナ&ロケッツを広めてくれるのはありがたいこと、ありがとうと、よく言っていた。取材者に対してそんなふうに言ってくれるミュージシャンは、そう多くはない。

 鮎川さんは2度目だったか3度目だったかの取材でもう名前を呼んでくれた。インタビュアーの名前なんていちいち覚えないのが普通なので、覚えてくださって、呼んでくれたことがすごくうれしかった。「僕は高1のときにシーナ&ロケッツのライブを見てやられて、『真空パック』は発売日に買ったんです」と言うと、鮎川さんは「ほんとにぃ? 凄いね。アンテナ、ビンビンやね」と言ってくれた。「アンテナ、ビンビンやね」。あの鮎川さんにそう言われたんだぜと友達に自慢したくなった。鮎川さんは、接する人をそうやって「うれしい」気持ち、誇らしい気持ちにさせる人だった。共演した数々のミュージシャンたちもみな、誇らしい気持ちになっていたことだろう。

 シーナ&ロケッツの結成は1978年。自分が初めてライブを見たのは翌79年で、複数のバンドが出演するイベントだったが、それが何だったかは思い出せない。79年から80年にかけては電化したRCサクセションが飛ぶ鳥を落とす勢いでライブ展開していた年であり、シナロケからRCという流れのライブもよく見た。「79年に僕が見たロケッツのライブでは誰々が一緒に出ていて…」「80年に見たライブでは誰々がこうで…」とインタビューのときに話をふると、鮎川さんはすぐに「ああ、あのとき、誰々がああやったね」といった感じで、そのときのことをより詳しく話してくれた。何年にどこの何のライブで誰と一緒にやったか。そのときにシーナさんがどんな感じで、客はどんな様子だったか。そういうことを鮎川さんは信じられないくらいによく覚えていた。記憶力がとんでもなくよくて、いつもびっくりさせられた。

取材はいつも相手を気遣うひと言から始まった【写真:本多元】
取材はいつも相手を気遣うひと言から始まった【写真:本多元】

揺るぎないロック哲学を持った人

 ギタリストとしての凄さ・上手さについては、自分には的確に書くことができない。どう書いたらいいのか分からない。アンプ直結。エフェクターなし。ペダルなし。やにわにシールドをぶっ刺して、アンプのボリュームを最大限にあげて、グガガガッとノイズが出たところから音楽が始まっているという、そんな感じ。で、グギャーンと鳴らす。ものすごい音量・音圧でギターを鳴らす。その一連の手際、弾き方、立ち方、すべてで、鮎川誠というロック&ブルーズが表現されており、それは圧倒的にオリジナルだった。手際、弾き方、立ち方、鳴らし方の全部がかっこよくて、ロックギタリストはどんなに指が速く動いてもそれらがかっこよくなかったらダメなんだという絶対的な価値観を鮎川さんによって植え付けられることになった。

 ギターだけでなく、ボーカルも、ライブ中の曲紹介の仕方も、オリジナルで最高だった。だから正直言うとソロ・アルバムをもっと作ってほしかったのだが、鮎川さんはあくまでも自分はバンドマンという意識が強く、それを大切にしたかったのだろう。

 近年は友部正人さん、三宅伸治さんと、3KINGSというバンドで活動し、フォークとブルーズとロックが面白い混ざり方をしたライブを行なっていた。結成された2017年から比べると3人の息の合い方もグンとよくなり、独特のグルーヴが出るようになってきていたし、鮎川さんの新たな一面をこのバンドで見ることもできた。そしてシーナ&ロケッツはといえば、LUCY MiRROR(鮎川家の三女)の自信とパフォーマンス力の進化に伴い、過去のライブでほとんど演奏されなかった曲が演奏されたりもするようになっていた。

 そうしてまだまだ新しい広がり方が期待できたし、いろんな可能性とアイデアを鮎川さんは持たれていたので、それだけに残念だし、今は悲しくてたまらない。でも、作品は残る。初期作品はすり切れるほど聴いたが、80年代半ば以降や90年代に発表されたシーナ&ロケッツのアルバムをこのところ聴き返していて、ハッとするような発見がいくつもあった。

 数十年前のロック・ブルーズをピカピカに磨いて、新しくも親しみやすい感触で届けてくれた人。揺るぎないロック哲学を持って自分の「好き」を追求しながら、家族、日常を大切にしてきた人。そして何より、愛の人。ずっと大好きです。ありがとうございました。

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