W杯中継で本田圭佑とのコンビが話題、テレ朝・寺川俊平アナの素顔 早大時代はサッカーで学部変更
サッカーのワールドカップ(W杯)閉幕から約3週間。選手たちは各クラブに戻り、試合に出場するなどしている。全64試合を無料生中継ABEMA(アベマ)で日本戦4試合、準決勝、決勝で実況を担当したテレビ朝日の寺川俊平アナウンサーも、日々の業務に取り組んでいる。入社以来の目標=「W杯で日本代表の試合を実況」を実現し、元日本代表MF本田圭佑との掛け合いで話題になった35歳。その素顔に迫った。
マインドは代表選手と同じ「目標が全くなくなりました」
サッカーのワールドカップ(W杯)閉幕から約3週間。選手たちは各クラブに戻り、試合に出場するなどしている。全64試合を無料生中継ABEMA(アベマ)で日本戦4試合、準決勝、決勝で実況を担当したテレビ朝日の寺川俊平アナウンサーも、日々の業務に取り組んでいる。入社以来の目標=「W杯で日本代表の試合を実況」を実現し、元日本代表MF本田圭佑との掛け合いで話題になった35歳。その素顔に迫った。(取材・文=ENCOUNT編集部ディレクター・柳田通斉)
カタールから帰国後、寺川アナは休みを入れながら通常業務を行っている。大きな仕事を終えた今、新たな目標を聞くと、正直に言った。
「目標が全くなくなりました。入社以来、ここ(W杯)のことを1番に考えていたので……。また、4年後を目指すことになると思いますが、『簡単に言わないで』という感じもあります」
マインドは選手たちと同じ。寺川アナにとって、「W杯カタール大会」はそれだけ重要なものだった。
幼稚園の年中からサッカーを始めた。所属は鷺宮SC。小学生になると、GKを務めるようになった。
「純粋に楽しかったです。ただ、中学受験の勉強で5、6年時は練習を休みがちでしたが、コーチが暁星OBで、楽しそうにサッカーをやられていたので『自分も』という思いになりました」
努力の末、暁星中に補欠合格。サッカー部に入ったが、レギュラーはつかめなかった。
「1年と2年の時は先輩たちが全国優勝しました。ただ、自分たちの代は『あと1歩』で、全国大会出場を逃しました。僕は控えで公式戦出場は2、3試合でした」
名門の暁星高でもサッカーを続け、GKのレギュラーを獲得。3年の春には、対戦したFC東京U-18のGK権田修一に衝撃を受けたという。
「1学年下の権田選手は、空中でクロスボールをキャッチ。そこにうちのFWに突っ込まれて危ない状況になっても、飛び込み前転でスクッと起き上がりました。直後、味方FWへピタッ~と合わせるパントキック。『自分と全然違う』と思い知らされました」
高校でも全国大会出場は叶わなかった。それでも、「大学でもサッカーを」と決意。当時監督だった林義規氏(日本サッカー協会前副会長)が、「暁星高―早大」の経歴だったことで、臙脂(えんじ)色の早稲田ジャージーに憧れた。
「ただ、僕が早稲田に行くには一般入試の道しかなく、追い込んで勉強をしました。そして、奇跡的に二文(第二文学部=06年を最後に募集停止)の補欠合格。青山学院大学の経済学部も受かってはいたのですが、その後、二文に空きができて入学することができました」
第二文学部→人間科学部 授業と練習を両立も2軍GK
早大ア式蹴球(サッカー部)にも入部。だが、夜間部である二文では授業と練習時間が重なっていた。
「入学してすぐに転部試験を受けることを考えました。高校までと違って勉強にも前向きで、興味を持った心理学で1週間の授業を固められる人間科学部人間環境科学科に行くと決意しました。試験は1年時の成績と小論文、面接だったので、二文の勉強も頑張りました」
授業と練習は両立できるようになった。だが、部員は約100人でGK10人程度。公式戦に出場する1軍のGKは3人で、そこに入ることはできなかった。
「高校時代、監督から『苦行を修行と思えば、自ずから道は開ける』と言われ続けたので、退部は考えませんでした。ただ、どうすることもできない力の差を感じていました」
そんな2年時のある日。ケガのリハビリで一緒になった同級生から「テラ、就職活動はどうするんだ?」と声を掛けられた。
「『大企業に』と返答しましたが、『そんなんじゃ、ダメだ。夢を持て。そして、どういう死に方をしたいかを考えろ』と怒られました。彼は他の同期にも夢を聞く『夢警察』でしたが、僕もここで初めて自分の夢を考えました。それは、『しゃべりの面白い、近所で有名なおじいちゃんになって死んでいきたい』でした。そして、自分の進路を決める基準になってきたサッカーを絡め、初めて『アナウンサー』という職業を頭に浮かべました」
だが、部活と授業で忙しく、アナウンススクールに行くことはできなかった。
「何も知識がないので、3年夏に民放キー局のセミナー申し込みをしても、限られた枠に入れませんでした。そのため、秋の本試験は気合を入れて受けました。エントリーシートには、『スナップ写真を貼る』と書かれていましたが、僕は写真館で撮ったスーツの全身写真を貼りました」
サッカーへの熱い思い、GKとして最後方から出し続けた大きく通る「声」もアピールし、高倍率の試験に合格。ここでW杯への道が開けた。
スクール通わずにアナウンサー試験合格「入ってからが…」
「日本代表戦に関われるテレビ朝日に入社できて、心からうれしかったです。ただ、入ってからが大変でした……」
入社4年はレギュラーがなく、下積みの日々。「ずっと叱られていた」という。
「2年目になり、『プロレスで鍛える』ということで、早いカードの実況を担当しました。サッカー実況のピッチリポーターをする機会もありましたが、4年目の秋口(13年11月)、日本代表のベルギー遠征で大失敗しました。最初のオランダ戦は、気持ちばかりが前に出た感じになり、実況の先輩にも(しっかりと)受けてもらえず終了。ハーフタイムには、次々と会社の偉い人から電話がかかってきて、『今、すぐに帰って来い』と怒られました。自分でも反省し、2試合目のベルギー戦の中継では、カフ(マイクのオンとオフを切り替える装置)を持つ指が震えて動かず、『アディショナルタイム何分です』としか言えませんでした」
この遠征の代表メンバーでは、本田圭祐が中心選手。当時、寺川アナは取材者の1人であり、9年後にW杯中継でコンビを組むことは想像もできなかった。そして、翌14年に情報番組「ワイド!スクランブル」で初のレギュラーを担当。主に現場リポートを担当した。
「地方で起きた殺人事件などでは、遅くまで聞きこみ取材もしました。証言VTR素材を系列局に持ち込み、東京に伝送したこともあります。とにかく結果を残そうと懸命でした。そんな中、ありがたかったのは、番組チーフプロデューサーの『寺川くんのスポーツ中継に対する熱い思いを途切れさせたくない』という言葉でした。おかげで、スケジュール調整をしていただき、スポーツ取材や中継に関わることができました」
その流れもあり、16年4月からは『報道ステーション』のスポーツキャスターを担当。プロ野球の熱いプレーを紹介するコーナー『今日の熱盛』で、『熱盛』の声も担当した。
「最初は、全員がそろえた『熱盛』の声を録音しましたが、しっくりこない。そこで、チーフディレクターから『俊平、やってみろ』と言われ、1人で暑苦しくやってみたら『意外といい』と。それで僕の声が採用されました。
苦労続きのアナウンサー人生だったが、着実にスポーツアナとして成長。18年10月からは、サッカー番組『やべっちFC』のMCを担当した。しかし、同番組は20年9月で終了。その後は、「W杯カタール大会で日本代表戦を実況」を現実にするべく、高いモチベーションで仕事を続けていた。
「入社当時から『2022年のW杯では日本が決勝に進出する。その実況は自分が』という思いがありました」
結局、テレビ朝日は1次リーグ日本―コスタリカを担当することなり、寺川アナは実況担当に選ばれなかった。
「夢破れました。ただ、その時点でABEMAが全試合を無料生中継することが発表されていて、程なくして僕が日本戦を担当することが決まりました。『地上波でやりたかった』という思いもありましたが、『ここに全力投球するしかない。ABEMAを多くの方に知ってもらおう』と気持ちを切り替えました」
1か月後には本田と対面。日本代表の取材で接した印象とは全く違う姿がそこにあったという。
「まず、本田さんが初めて解説すると聞いて、『すごいことに』と思いました。すごく丁寧で穏やかでした。実は、本田さんの星稜高校時代の後輩が、私の大学同期と1学年下にいて、『(本田は)しゃべり出したら止まらない関西のお兄ちゃん』という話を聞いていましたが、本当にその通りでした」
現実にABEMAの中継で、本田は素をさらけ出した。お茶の間感覚で喜怒哀楽を出し、専門家としての見方も示す。その上で、寺川アナへ『メッシの契約はいつまでですか?』『7番、うまっ。誰ですか』などと質問を重ねた。
「全てが想像を超えていました(笑)。そこで、最初のドイツ戦を終えてからは、対戦相手の情報をさらに詳しく調べました。ただ、僕から質問した時に本田さんから『あっ、全然、聞いてなかった』と返されることもありました(笑)」
そんな本田・寺川アナのコンビは、「面白い」と話題になり続けた。日本代表が決勝トーナメント1回戦でクロアチアに敗れた後もコンビは継続。寺川アナは、「2022年W杯決勝の実況をする」という夢を叶えた。
「まさかでしたが、決勝も実況できました。そして、本田さんのお陰でサッカーの面白さ、本質をお伝えすることができたと思います。ですので、『次の目標』と言われても……」
難しいコンビ復活…次のW杯共演は「本田さんが監督で」
だが、本田は「今後、解説をすることはない」と話している。心変わりがない限り、コンビ復活はない。
「また、ご一緒したい気持ちはありますが、本田さんの夢は明確に『W杯で優勝させる監督になる』ですし、『隙間にチャンスがあるなら』の思いでいます。そして、将来は本田さんが監督の日本代表がW杯優勝。その決勝を実況したいです」
35歳で1つの夢を叶えた元サッカー少年は、これからも1歳上の本田を追い、新たな形での“共演”を目指していく。
□寺川俊平(てらかわ・しゅんぺい)1987年12月21日、東京・中野区生まれ。早大人間科学部人間環境科学科卒。2010年4月にテレビ朝日に入社し、14年4月から「ワイド!スクランブル」で初レギュラー。16年4月からは「報道ステーション」のスポーツキャスターを務めた。18年10月~20年9月は「やべっちFC」の進行キャスターを担当した。181センチ。