フランスで挫折、ラーメン職人として再起、突然訪れた恩師の死…恩返しは“師匠超え”
本場で修業したフレンチで“挫折”を経験し、ラーメン業界へ転身。千葉市内で“屋号なし”のラーメン店を経営する池田将太郎さん(株式会社「scLabo」代表)=41=は、美食とラーメン“二刀流”の舌を持つ異色の料理人だ。自身の店では“二毛作”で2種類のタイプの異なるラーメンで勝負し、人気を集めている。ところが、突如訪れたラーメンの師匠との永遠の別れ…。その半生に迫った。
海外修業で「人間が変わりました」 ちばからインスパイア&濃厚煮干しの二刀流、2人の師匠に感謝の思い
本場で修業したフレンチで“挫折”を経験し、ラーメン業界へ転身。千葉市内で“屋号なし”のラーメン店を経営する池田将太郎さん(株式会社「scLabo」代表)=41=は、美食とラーメン“二刀流”の舌を持つ異色の料理人だ。自身の店では“二毛作”で2種類のタイプの異なるラーメンで勝負し、人気を集めている。ところが、突如訪れたラーメンの師匠との永遠の別れ…。その半生に迫った。(取材・文=吉原知也)
千葉で生まれ育ち、料理が大好きな子どもだった。両親は共働きで、自然と厨房(ちゅうぼう)に立つように。「麺も好きで、コシがあるうどんが食べたくて、小5の時に自分でうどんを打っていました。小麦粉を練って1時間踏んで。平べったい麺になっちゃうのですが、『コシがある』と満足していました」。高校時代はサイゼリヤのキッチンでバイト。全国でも売り上げ2、3位の繁盛店でスピード感覚を磨いた。
料理の専門学校に通い、栄養士と調理師の免許を取得。先輩からのアドバイスもあり、最初は栄養士として働く道を選んだ。「現場で料理を作りたい」という思いを募らせ、23歳の時にフランス料理店の門をたたいた。「その店のコックが『フランス料理以外は認めない』といったタイプの方で、みっちり鍛えられました。ラーメンとか言ってられませんでした(笑)」。30歳を前に、ある決断をした。やるからには本場で――。ワーキングホリデー制度を活用し、29歳の時に渡仏した。
大胆な行動に出た。フランスでの修業先は自ら手紙を送って、探し当てた。同封した履歴書もフランス語でしたためた。「30軒に手紙を書きました。フランスに行く1週間前に電話がかかってきました。南フランスの2つ星レストランで、ちょうど日本人のシェフがいたんです。その方から連絡をいただきました。行くしかない。その一心でした」。
フランスでの1年間で「人間が変わりました」。気弱で自信が持てない性格が一変した。「フランスの厨房でもまれました。彼らはプライベートではフレンドリーなのですが、仕事には厳しい。僕は日本で少しフランス語を習っていましたが、カタコトです。とにかく怒られるんです。若いフランス人シェフのミスであっても、巡りに巡って僕が怒られる(笑)。毎朝6時から仕事が始まって、休憩30分で、仕事が終わるのが夜中1時。そこから2、3時間フランス語の勉強をして……本当に寝ないで働いていました。18、19歳の若い子に怒られて、悔しくて泣きましたよ。『こいつらとけんかしないと、まともに働けない』。そう思ってやっていました」。歯を食いしばり、鍛錬を重ねた。それとともに、オープンでグローバルな感覚を身に付けることができた。
ビザの期間などの都合でいったん帰国。もちろん、再びフランスに渡るつもりだった。「もう一度、ゼロからやり直す。フランスでできなかったら日本ではやらない。それぐらいの強い思いを持っていました」。また働けるよう店側などと交渉を続けたが、半年待っても結果は芳しくなかった。フランスには戻れない……。挫折だった。
もともと、人を動かす仕事をしたい、自分でお店を出したいという気持ちはあった。「じゃあ日本で何をやるかとなった時に、『やっぱり麺類が好きだな』ということが一番に頭に浮かんできたんです」。こうして、ラーメンへの道が開けた。
ラーメンの修業先は2店舗。そこで学んだ味を基に独自のスタイルを築き、現在の自分の店では2種類のラーメンを提供している。
濃厚とんこつの“二郎インスパイア(ちばからインスパイア)”は「ちばから」(千葉県市原市)で、“濃厚煮干し”は「中華ソバ 伊吹」(東京都板橋区)。それぞれの師匠の味を覚えた。
だが、ちばから店主の長谷川誠一さんが2021年9月に病気で亡くなった。池田さんは同店を卒業してから独立した唯一の弟子となった。
池田さんはちばからの面接当日のことを懐かしそうに振り返る。
「自家製麺で具も全部手作りのお店。仕込みも一からやっていて、ここだったらなんでも学べる、と思ったんです。面接の最後に僕が『自分が納得するまでは辞めませんから』と話したら、大将が大爆笑して、『ごめんな、笑っちゃって』と言ったんです。覚悟が必要だなと直感しましたが、まあフランスでの経験もあるので、あれ以上苦しいことはないなと思っていたんです。でも、実際に働いてみると、ぶっちゃけ厳しかったですよ」
もう1つのエピソードを教えてくれた。
「最初は別の店を手伝いながらだったので、ちばからは週3日のバイトだったんです。お店が楽になれるような仕事は自分でやっておこうと思って初日に入りました。言われたことをすべてやって、自分たちの手でニンニクの皮をむいているのですが、自分がバンバンむいて。そうしたら、初日の最後のお客さんのラーメンを作っていた時に、大将が背中を向けながら、大将の奥様(女将の利恵さん)に『こんなやつ、今までいなかったな』と言ったんです。面接の時は『丼を投げられても大丈夫か』とかすごいことを言われたんですけど、バイト2日目には大将が『足りないことがあったら何でも言ってな』って(笑)。あと、ちょうどフランスから帰ってきた時にスーツを新調したのですが、ちばからで働いたら、そのスーツを着れなくなっちゃったんです。肩がデカくなって(笑)。自分ではあまり気付きませんでしたが、それほど重労働だったんでしょうね。2年弱で卒業させていただきました」
ラーメン職人ながら趣味はフレンチの食べ歩き「東京の3つ星レストランは全部行きました」
師匠の長谷川さんが亡くなって時間がたつ中でも、実感が沸かないという。「亡くなったことを認めたくないとかそういうことではないのですが、あっという間のことでもあったので、亡くなったと聞いた当時のままの感覚です。すごくキャラも個性も強い大将だったので、今でも声が聞こえてくると言いますか、それぐらいインパクトのある人だったんです」。かみしめるように語った。
自分自身がラーメン道を究める中で、師匠たちの存在をどう捉えているのか。“師匠超え”も恩返しの1つだろう。
「長谷川大将も、煮干しのほうの三村(悠介)師匠もそうなのですが、お二人とも尊敬していますし、僕がお店を持てるようになったきっかけをくださり、感謝しかないです。だけれども、やっぱり僕は僕で料理人としてのプライドと言いますか、職人としての気持ちも強いので、負けないぞ、むしろ超えてやろう、それぐらいの気持ちは常に持っています。お二人とも、気は強いですし負けず嫌いなのも知っています。それでも、お二人は僕のことをかわいがってくださる。その気持ちは僕にすごく伝わってきています」
それに、ちばからの味と精神を引き継ぐ気概にもあふれている。「『ちばから出身の池田さんだ』と言ってくれる人を増やしたいです。僕自身は、自分が働いていた時が最強だと思っています。その味をずっとイメージしてやっています。それでいて、自分の中で制約を設けていて、大将が使っていなかった食材を入れています。お客さんには分からないかもしれませんが、自分の中では差別化しています。すべて同じものは使っていないけど、あの味を超えたい。そんな思いを持っています」と熱く語る。
自身の店は、今後の展開への下準備を進めている。将来的に、2種類のラーメンをそれぞれ専門店として別々のお店で出す計画だ。現在の店舗をセントラルキッチン化しており、「現店舗で3店舗分ぐらいまでは2種類のラーメンを生産できると考えています」。条件に合う物件をじっくり探しているという。
ラーメン職人でいて、趣味は主にフレンチの食べ歩きだ。「今でも全然ラーメンじゃないものばかり食べ歩いています。東京の3つ星レストランは全部行きました。ミシュランの星付きで言ったら、世界のフレンチレストランは50軒以上行っています。そこは自分にとってのざんげと言いますか、忘れちゃいけない原点だと思っているので。自分が諦めた世界でこんなことをやっていてすごい、と刺激をもらえるんです。勉強するものがたくさんあります」という。
料理人として、夢は大きく広がっている。「常にしっかり気を引き締めていたいです。今は人手不足などもあって飲食業界は難しい部分もあるのですが、自分は最終的にラーメンだけじゃなくて、今までせっかくやってきたものもあるので、いろいろとやりたい構想を持っていますよ」。これからもあっと驚く仕掛けを見せてくれるかもしれない。