藤波辰爾、棚橋戦は“動かない右足”との闘い 猪木さんも観戦を約束していた「12・1」

炎の飛龍・藤波辰爾(68)のデビュー50周年記念ツアー最終戦(12月1日、東京・国立代々木競技場第二体育館)が近づいてきた。メインイベントで棚橋弘至(新日本プロレス)とのシングルマッチを控える藤波は、可能な限りのコンディションを取り戻すべく最終調整を行っている。カギを握るのは右足のデキだ。2015年に脊柱管狭窄症で手術した際、骨を削った影響で棒のように動かなくなった。棚橋戦は10月に亡くなったアントニオ猪木さん(享年79)も、見届ける予定だった大一番。パーソナルトレーニング中の藤波を取材し、決戦にかける思いを聞いた。

かかとをつけた状態で足の上げ下げを行う藤波辰爾【写真:ENCOUNT編集部】
かかとをつけた状態で足の上げ下げを行う藤波辰爾【写真:ENCOUNT編集部】

「ドロップキックができるまでは引退できない」

 炎の飛龍・藤波辰爾(68)のデビュー50周年記念ツアー最終戦(12月1日、東京・国立代々木競技場第二体育館)が近づいてきた。メインイベントで棚橋弘至(新日本プロレス)とのシングルマッチを控える藤波は、可能な限りのコンディションを取り戻すべく最終調整を行っている。カギを握るのは右足のデキだ。2015年に脊柱管狭窄症で手術した際、骨を削った影響で棒のように動かなくなった。棚橋戦は10月に亡くなったアントニオ猪木さん(享年79)も、見届ける予定だった大一番。パーソナルトレーニング中の藤波を取材し、決戦にかける思いを聞いた。(取材・文=水沼一夫)

 11月下旬、都内のマンションの一室に、藤波の悲鳴が響いた。トレーナーが持っていたストップウオッチが止まる。藤波は鬼の形相だ。再び針が動く。この日は90分間に14種類のメニューをこなした。プロレス界のレジェンドは68歳の肉体にムチ打ち、大汗を流しながら自身を追い込んでいた。

 体は見事なまでにビルドアップされている。トレーニング後に計測した体脂肪率は19%を指した。それでも藤波は「棚橋は15%を切ってくるだろうからね」と言った。コンディションにこだわるのは、若手のころにフロリダで指導を受けた“神様”カール・ゴッチの言葉があるからだ。「相手がこういう感じだから自分も合わせるぐらいでいいかと思ったらそれ以下になるし、常に相手をオーバーするぐらいに自分が意識しておかないといいパフォーマンスはできない。どんな弱いやつでもコンディションのいいやつには勝てないよ。だからあんまり腕っぷしだけに頼るんじゃない」。45年たっても実直に信念を貫いている。

 不安材料があるとすれば、右足だ。7年前に手術した脊柱管狭窄症。その“後遺症”との闘いが続いていた。

 かかとを床につけた状態で、足首を上下させる。左足はスムーズに動くが、右足はやっとだ。感覚に乏しく、脳からの信号を受けきれていない。

「やっとここまで戻ったんだけど、反応が弱いね。右足が上がらなかった。死んではいないから、記憶の中で呼び起こしてあげなきゃいけない。細くなっている神経を鍛えることによって、また元通り、太くしてあげる。何もしなかったらもうそれで終わり。病院出たときは、全く足が動かなかったわけだから。まだまだやらないと」

 左足が100とすれば、右足は「40、50」とまだ半分の状態。それでも藤波は懸命に前に進もうとする。

「リングに上がったときには、それが分からないように自分でカバーして動いちゃうけどね。でも、自分でパパッと反応するのが遅いよね。特に横に動くのが。ブレーキがどうしても効きづらい。踏ん張りが利かない。ヘルニアだけじゃなくて、狭窄症。本来であればそれをやったらコルセットして、無茶できないんだけど、自分たち(レスラー)は一番悪い運動ばかりしているんだもん」と苦笑した。

 指導を行っているのは、なかやま恵之助、さん。2002年から二人三脚の関係だ。藤波が「あの人がいなかったらここまでの復活はできなかった」というほど、全幅の信頼を寄せているトレーナーだ。リハビリを含んだハードなトレーニング内容は、かつて新日道場でそれを見た新日プロの選手が逃げ出したほど。それを68歳の年齢で、こなしている。

右足のストレッチに悲鳴を上げる【写真:ENCOUNT編集部】
右足のストレッチに悲鳴を上げる【写真:ENCOUNT編集部】

「普通だったら選手生命はアウトでしょうね」

 肉体を維持するのは並大抵な努力ではない。食事は1日2回を長年の習慣にしている。昼は朝より量を減らし、付き合いなどで夜を食べることがあっても、おかずのみを少量口にする程度。アルコールも控えている。「昔から腹8分目と言うけど、8は食べないね。多くて7分目。胃が広がっちゃっているから食べるとまた食れべれちゃう」。代謝がよくても、すぐ体重に跳ね返ってくる。腰への負担を軽くするために、体重をキープする必要がある。

「102キロまでは落ちるんだけど、そこからが落ちない。普通に体が大きいわけじゃない。結局、脂肪じゃないから筋肉の中の水分を削ることになる」

 1989年6月のビッグバン・ベイダー戦で高角度のバックドロップを食らった際に腰を負傷。「椎間板ヘルニア」と診断され、復帰まで1年3か月を要した。以来、腰に爆弾を抱えてきた。

「自分のプロレス人生50年の半分以上は腰痛だから。普通だったら選手生命はアウトでしょうね。ましてやメスを入れているわけだから」。脊柱管狭窄症の手術で背中を20センチほど切り、骨を削った。通常の生活に戻れたが、プロレスはさらにその先がある。軸足の右足は生命線。ジュニア時代から、ドラゴンロケットなど華やかな飛び技で会場を沸せた。

「どうしても右足がね、いまいち。でもだいぶ歩けるようになったし、走れるように少しずつなってきているし、自分がドロップキックができるまでは引退できないな。ドロップキックできたときに初めて自分の達成感があるというか、そこにこだわりたい」

 2~3年前からは5本指靴下を愛用。これもリハビリの一環で、主治医からの助言に従ったものだ。

 棚橋との一騎打ちに向け、藤波は全盛期の体に戻すことを目標に掲げている。

「年齢を考えると、みんな『まだ全盛期に体を戻す気ですか?』って笑うだろうけど、僕は真面目なんだよね。思っておけば、少しは近づけるし、目標を下げればそれ以下になっちゃう。目標を上に置いとかないと」

エアロバイクを漕ぎながら上半身を鍛えた【写真:ENCOUNT編集部】
エアロバイクを漕ぎながら上半身を鍛えた【写真:ENCOUNT編集部】

準備していた猪木さんのためのスロープ

 大会には10月1日に亡くなった猪木さんも訪れる予定だった。

「亡くなる2か月前だよね。自宅に行ったとき、猪木さんが最後ベッドから起き上がって、歩行器を使って歩いてきたからね。あの時、本当に顔色もよくて元気で、うちの家内が持っていったお土産を食べていた。食事が制限されているから、『これぐらい多少味があったほうがうまいな』とか言ってね。あの顔がいまだに忘れられない。すごくいい顔していて、帰るときは、『さっきのあれ、12月の何日だっけ?』『12月の1日です』『分かった』と言ってね。本人が聞いてきたぐらい」

 猪木さんにリングに上がってもらうため、階段をなくした特別なスロープも用意していた。

「スロープを使って猪木さんの車いすを僕が押してリングに上がってもらおうかなと思っていたから。そしてリング上で、ダーッをやってもらおうかなと。本人も想像しただろうし、『分かった。ヨシ、12月1日だな』と、すごく照準を合わせていたからね」

 自身のメモリアルマッチに、猪木さんは来ることができなくなった。早くから猪木さんに来場を呼びかけていた藤波は、「本人もやっぱり病魔と闘ったわけだからそういう意味では少しでも闘う力になればと思っていたし、僕は僕で頑張っていかなきゃと思っていたので」と後悔はしていない。新日本流のストロングスタイル、猪木さんから継承した闘魂を背負い、棚橋が待つリングに上がっていく。

□藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)1953年12月28日、大分県国東市出身。70年6月、16歳で日本プロレスに入門。翌71年5月9日デビュー。75年6月に海外遠征へ出発。カール・ゴッチのもとで修行を積み、78年1月にWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得。82年10月、長州力とのライバル抗争に突入。「名勝負数え唄」と呼ばれる。IWGPヘビー級王座は6度戴冠。99年6月、新日本プロレス社長に就任。2006年6月に退団し、「無我ワールド・プロレスリング」を旗揚げ。08年1月より団体名を「ドラディション」へと変更した。15年3月にはアントニオ猪木に続く日本人選手2人目となる米国WWEの殿堂入りを果たした。183センチ、105キロ。

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