「これ何年生きるんだろう」中学3年で人生が暗転 絶望から立ち直った車いす画家が伝えたいこと

古小路浩典さんは中学生のとき、部活動中にあやまって頭から落下し、頸椎を損傷。肩から下がまひし、手足の機能を失った。現在は口を使いながら、画家として活動している。3年ぶりに開催される絵画展「口と足で描いた絵~HEARTありがとう~」(20~23日、東京交通会館B1ゴールドサロン、入場無料)に作品を出展する。一時は絶望の中、自暴自棄になるほど落ち込んだが、絵を描くことで生きる意味を見いだし、現在に至る。古小路さんが今、伝えたいこととは。

絵画展で展示する作品「ヨットのある風景(熱海)」を仕上げた古小路浩典さん。60センチほどの筆を口で動かす【写真:ENCOUNT編集部】
絵画展で展示する作品「ヨットのある風景(熱海)」を仕上げた古小路浩典さん。60センチほどの筆を口で動かす【写真:ENCOUNT編集部】

落下直後に「これどうなったんだろう」 病室で迎えた卒業式

 古小路浩典さんは中学生のとき、部活動中にあやまって頭から落下し、頸椎を損傷。肩から下がまひし、手足の機能を失った。現在は口を使いながら、画家として活動している。3年ぶりに開催される絵画展「口と足で描いた絵~HEARTありがとう~」(20~23日、東京交通会館B1ゴールドサロン、入場無料)に作品を出展する。一時は絶望の中、自暴自棄になるほど落ち込んだが、絵を描くことで生きる意味を見いだし、現在に至る。古小路さんが今、伝えたいこととは。(取材・文=水沼一夫)

 古小路さんにアクシデントが襲ったのは中学3年の1月だった。場所は岡山・倉敷市。体操選手だった古小路さんは部活動のアップで、助走をつけて小さなトランポリンから宙を舞った。しかし、着地に失敗して頭から落下。そのまま動かなくなった。

 意識はあった。

「仰向けにしてもらって、なんか自分の体が動かないもんだから、これどうなったんだろうという感じでした。後輩がすぐ先生を呼びにいって、動かさないほうがいいからと言われました。とにかく首が痛い。救急車で運ばれているときも、体は何か火がついたように熱くなっているし、ちょっと怖かったですね」

 通常なら部活動を卒業している時期。だが、中学で体操を始めた古小路さんは体操の楽しさにのめり込んでいた。五輪選手を輩出している体操強豪校への進学も見据え、土日も体操に没頭した。進路を決めるための面談を控えており、「ちょっと張り切っちゃったのかな」。夢を追いかけていた矢先だった。

 最初に運ばれた病院では、治療が困難との理由で別の専門病院に移送された。そこからの入院生活は実に2年弱に及ぶ。卒業式にも出られず、先生たちと病室で対面した。「特に顧問の先生が責任感じちゃって」。重苦しい空気の中での、門出だった。

 当初は手術を受ける予定だった。「金曜日に入院して月曜日にオペするからって言われたんですけど、容体が悪くなって月曜の朝には呼吸ができなくなっていたんです。この状態だと手術は無理だと言うので、気管切開して意識が戻ったときには人工呼吸器がついていました」。

 肩から下が動かないまひ状態になった。「結局オペはしていないんですよ。だから首は脱臼骨折したままで固まっちゃった。それでも生きているからいいんでしょうけど」。リハビリの先生からは回復しにくい状態であることを伝えられた。

「うわー、まだ僕15や16なんだけど、これ何年生きるんだろうと思いました。大部屋に移ったとき、みんな、まだ若いんだから可能性があるよと言ってくれてたけど、ずっとこのままなんだなと」

 青春時代の真っただ中。一瞬の出来事で暗転した人生。古小路さんは退院しても、現実を受け止めることはできなかった。

 リハビリで口でペンを動かす経験はあった。それで絵を描いてみても、「続かないわけですよ。1週間、2週間、またテレビばっかり見ている。それでストレスが溜まると看病してくれている親とけんかしたり。みんなそうみたいだけど、自暴自棄になって、目標もないし、もう何かイライライライラしていました。食べて出して寝て、みたいな。たまに『あのとき死んどけばよかったんだ』みたいな気持ちになっていって、退院して1年はきつかったですね」

 同級生や先輩が見舞いに来てくれても、素直に受け入れることはできなかった。

「友達が来ても早く帰ってくれたらいいのになとか、そんなふうにもひがんじゃっているわけ。あれだけ元気よくて、飛び回っていたのが、それが自分が一番友達なんかにアピールする点だったんだけど、元気な姿を見せれないのが恥ずかしいとか、だんだん腐っていっちゃって……」

愛猫と花を描いた作品「バースデー」【写真:口と足で描く芸術家協会提供】
愛猫と花を描いた作品「バースデー」【写真:口と足で描く芸術家協会提供】

不自由ない自宅の生活 感じた焦り「人とどうやって会話するか」

 転機になったのは19歳のころ。「元々漫画を描いたりするのは子どものころから好きで、似顔絵を描いたりしていました」という古小路さんは本格的に絵を習おうと、週に1回、自宅で先生の指導を受ける。「ずっと家にいるので、いるなりに続けられそうなこととして、絵をスタートしました。焦ることもないし、10年間やってみようみたいな目標を決めて」。

 先生とは馬が合い、映画やサブカル談義にも花を咲かせた。

「部屋にこもって絵ばっかり描いてて、それが楽しかったですね。何かやりたいことが見つかったという気持ちでした」

 絵を始めて10年になろうとしたとき、先生からの勧めで個展を開いた。「十何年も会っていなかった人と出会えて、だいぶ励みになりましたね」。刺激になった一方で、古小路さんは焦りを抱いた。「絵画展をやると、そこで社会と接触する。本当に引きこもりになっちゃっていたから、人とどうやって会話していくかも分からなくなっていました。そこで焦っちゃって、これはもうまずいぞと。元々友達もたくさんいたし、しゃべったりするの大好きだったから、ああ、やっぱり元々あるものをもう1回、もとの自分に戻さないとと思いましたね」。

 古小路さんはボランティア活動のグループに入るなど、積極的になった。

「そこではちょっとしたことでも他の人に頼まなきゃいけないというふうになるじゃないですか。それまでは恥ずかしいからと我慢していたのが、もう考え方を変えなきゃいけなくなった。僕はもう障がいを持っているんだから、それを受け入れないとって。かっこつけて、かっこ悪いとかって言っている場合じゃないよと。外に出るたび、人と接触するごとに、何か『障がいの受容』というのはそういうことなんだな、というふうに思いましたね」

 自宅にいれば母親が介助してくれ、不自由がなかった。障がいを乗り越えた気にもなっていた。「ずっとこのまま一生これが続けばいいな」。安住の場所だと思っていた意識は変わっていった。34歳のとき、家族を倉敷に残して上京。母は祖母の介護が始まり、負担をかけたくない思いもあった。

「いわゆる自立というのを考えなきゃいけないなと」

 多くの人に支えながらの東京での暮らしは、25年がたっている。

絵に支えられた人生「口で描けりゃいいんだ」

 この3年はコロナ禍で、絵を展示する機会はなかった。絵画展「口と足で描いた絵」は久しぶりのお披露目の場だ。両手が使えず、口や足で絵を描くアーティストたちの団体「口と足で描く芸術家協会」が主催し、計45点が展示される。

 古小路さんの作品は熱海の海を題材にしたものだ。昨年、コロナが落ち着いた時期に仲間と訪れた。「有名な浜焼きの店があって、そこでみんなで食べて、お腹いっぱいになって、少し涼もうと散歩した時にヨットハーバーがあって、ああいいな、こういう風景もいいなと思って、写真をいっぱい撮って帰ってきました」。自宅のアトリエで撮影した写真を見ながら、2か月強で完成させた。

「みんな発表する場が遠ざかっていたから、モチベーションが上がらなかったりした部分もあったと思うんだけど、今回そういうところでお披露目できる。ずっとこもって、ずっと絵を描いていたけど、やっと人目を浴びれます。世の中、暗いことばかり続いているけど、好きなことに向けて、エネルギーを注いだものに触れてもらえるっていいな」と、開催を喜ぶ。

 絵を描き続けて、約40年になる。古小路さんは「いまだに描き続けて、もっといいのが描けないかと思って諦めずに描いてます」と情熱を燃やしている。

 古小路さんのように、健常者が突然の事故で障がいを負った人を「中途障がい者」と呼ぶ。生きる意味をなくし、閉じこもったままの人も少なくない。

 中学時代の事故を、今はどう思っているのか。

「起こらなかったほうがもちろん良かったと思いますけど、起こっちゃったものはもうどうしようもないですからね。だからそのあとですよね。人生が一変するようなトラブルがあったとしたときに、その後は何が支えになるのかとか、本当に人それぞれですから。もちろん振り返れば、僕は絵を描けることが最低でもそれができたからよかった。気持ちがそこに持っていかれたから。それによって支えられたんだと思っているわけですよ。

 得意なことがあっても、もうそのころは何もできないと思っていたけど、自分の先人の人たちで、この協会を興した人たちというのはみんな障がいを持って口に筆をくわえたりとか、時には足で持ったり、そういう人たちがちゃんと結果として絵を描いているという事実があるじゃないですか。やっぱりそこに指標じゃないけど、僕もああなりたいというような気持ちに、自分が寄っていったわけですよね。好きになったことで好きになったことを思いっきりやれるようにしてみたいって。それだったら別に手がなくたって、口で描けりゃいいんだというような目標を見つけることができた。そういうものがあったから、いまだにこんな感じでバカ言いながらでも、ヘルパーの人とああだこうだ言いながらやっていけてるみたいな、そういうのはありますね」

 体操を諦め、望んでいた高校生活を送れなかった。長時間苦悩した。絵を描くことで人の交流が生まれ、努力を積み重ねることで、新しい道を開いた。古小路さんの作品は、前向きな力にあふれている。

□古小路浩典(こしょうじ・ひろのり)1963年5月、宮崎県生まれ。中学校3年生のとき、器械体操の部活動中に第4、5頚椎を損傷。肩から下はまひしたまま、手足の機能を失う。自暴自棄になったが、「口と足で描く芸術家協会」を知り、画家の道を目指す。著名な画家の指導を受け、頭角を現す。水村喜一郎美術館で見た、水村さんの風景画に刺激を受け、近年は本格的に風景画に挑戦している。

次のページへ (2/2) 【写真】古小路浩典さんが描いた雄大な「富士山」
1 2
あなたの“気になる”を教えてください