元「新加勢大周」坂本一生さんの壮絶人生 猛烈バッシングに車中生活、見つけたやりがい
タレントでインストラクターの坂本一生さん(51)が、地元の千葉県八千代市にパーソナルトレーニングジムを構えて今年で5年目を迎えた。1993年に「新加勢大周」というショッキングな芸名でデビューし、世間を騒がせたあの騒動からまもなく30年。一度ついてしまったイメージは「坂本一生」と改名後も彼の人生を左右した。そんな坂本さんの半生を2回にわたって紹介する。1回目は逃げずに歩き続けてきたからこそ笑い飛ばせる壮絶な30年を振り返ってもらった。
何一つ芸のない自分は虚勢を張って生きていくしかなかった
タレントでインストラクターの坂本一生さん(51)が、地元の千葉県八千代市にパーソナルトレーニングジムを構えて今年で5年目を迎えた。1993年に「新加勢大周」というショッキングな芸名でデビューし、世間を騒がせたあの騒動からまもなく30年。一度ついてしまったイメージは「坂本一生」と改名後も彼の人生を左右した。そんな坂本さんの半生を2回にわたって紹介する。1回目は逃げずに歩き続けてきたからこそ笑い飛ばせる壮絶な30年を振り返ってもらった。(取材・文=福嶋剛)
――坂本さんは現在、千葉県八千代市でパーソナルトレーニングジムを経営されていますが、ここが地元だそうですね?
「小学生からずっとここですね。県内の大学付属の高校に通っていたからそのまま大学にも上がれたんだけどバイトしながら留年している先輩を見てきて自分はそっちにはいきたくないと思って、兄貴が通っていたオーストラリアの学校に2年間留学したんです」
――スポーツ留学ですか?
「語学留学です。といっても昔から頭は悪かったんだけど運動は得意で水泳もやっていて、ウエイトトレーニングもその頃から向こうの大きなジムに通って始めていたんです。毎日学校が終わるとすぐにジムに行ってプールで泳いでトレーニングしてからホームステイ先に戻るという日課でした。近くにあったカジノのジュエリーショップで日本人対応のアルバイトをしていました。でも給料をもらったらいつも目の前のカジノで全部使い切ってしまいました(笑)」
――ヤンチャなところは向こうでも変わらず(笑)。帰ってきてすぐに芸能界にスカウトされたわけですね?
「本当はプロ野球選手になりたくて日本に帰ったら多摩川グラウンドの巨人のプロテストに行こうと思っていたんです。とにかく野球が好きで足も速かったし、肩も強かったから遠投も得意だったんでね。でもテストを受ける前に芸能界に入っちゃって」
――加勢大周さんのことは?
「僕が海外に行っている間に出てきた人だから全然知らなかったし、もちろん会ったこともないです」
――経緯を知らずに新加勢大周と名付けられたと?
「当時は20歳そこそこで強く押し切られたらノーとは言えなかったし、若ければ若いほど余計に丸め込まれてイエスの方向に向かっていくという世界でしたから。テレビなんて全然見てなかったし、ましてや芸能の世界なんて何も分からないのにポンと人前に出されてね」
――黒のタンクトップ姿で。
「そう(笑)。彼が白いTシャツのイメージだったから、僕は黒のタンクトップで白と黒の対決みたいな感じだったんじゃないかな」
――芸名問題で猛烈なバッシングに遭いました。
「そうでしたね。NHKでも取り上げられるくらいのニュースになってデビュー初日にいきなり全国区になりましたから。そんな人は後にも先にも僕しかいないですよ。外を歩くと石をぶつけられるじゃないけど加勢さんのファンからしたら許せなかったでしょうし。逆にそんな僕を応援してくれる街の人もいたんですよ。それで20日後に『坂本一生』に改名させられたんですが、結局新聞でも『新加勢大周改め坂本一生』って長い名前で紹介されるから、共演者の先輩に『一生と番組に出るとお前の名前が長いからテレビ欄に俺の名前が出ないんだよ!』って文句を言われたこともありました。まあ心配してくれる人よりも、ねたむ人の方が多かったですね」
――つらかったでしょうね。
「なんだろう、……今だから言えますけど正直苦しかったですよ。夢を見て芸能界に入ってきたんだけど、その数時間後に真逆の世界を見せられたというかね。芸能界って先輩方がいろんな芸を磨いて何年も何十年もやってようやくステージに立てたりするのに、何ひとつ得意なものがない自分は芸名だけが独り歩きしてしまい、あまりにもギャップが激しすぎて虚勢を張って生きていくしかなかったんですよ。一方でどんなに芸を磨いても表に出られない人がほとんどの世界ですからラッキーだったのかもしれないけれど」
――芸能界を辞めようと思ったことは?
「やっぱりこの世界って一度何かがあるとずっと名前が出ちゃうんですよ。普通の仕事をやったとしても『坂本一生』って名前はずっとついて回るんです。後ろ指だって指されましたし、落ちこぼれと言われて叩かれましたし。まともに働こうと思っても大変でね。あの頃は本当にしんどかった。改名後だったかな? 思い詰めて車で青木ヶ原の樹海まで行ったんです。でもナビなんかない時代だから途中で道に迷っちゃってね。結局市街地に戻ってきちゃった。それからは思い詰めるのをやめました」
貯金がゼロ、真冬の2か月車の中で路上生活を経験
――そのあと格闘家を目指して厳しい練習をしていたそうですね?
「結婚を機に妻を支えなきゃと思って必死でした。殺されるかと思うくらいのトレーニングでしたが、4か月ぐらいたって企画を持ち込んだ関係者と話がこじれて宙ぶらりんになっちゃった。お金も底をついて住んでいたマンションも引き払い、真冬の2か月ぐらい横浜の港の近くに車を停めて妻と2人で車の中で生活をしていました。あの2か月間のホームレス生活が人生で一番きつかったですね」
――ご両親に助けを求めなかったんですか?
「自分のまいた種だから家族には迷惑を掛けたくなかったんです。2か月後にようやくお金を手に入れてワンルームを借りました。そのあと子どもを授かってからは怒涛(どとう)のバイト生活でした。ホストもやったし、探偵もやったし、ラーメン屋、プールの監視員とか全部は覚えていないんだけど、とにかくなんでもやりました。車の運転が得意だったからトラックでコピー機を運搬したり、フォークリフトを動かしたり。でも車に乗ったら事故に遭って骨折して、足場の仕事やっていたら落っこちてまた骨折したり。収入が安定したと思ったら離婚しちゃって結局バツ2(笑)。仕事でもだまされたりしてね」
――壮絶すぎます。ちなみに探偵はどんな仕事内容でした?
「浮気調査とか不倫です。でも探偵の仕事は失敗しました。そもそもこの体形と顔だから尾行なんてしたらすぐバレるし、挙動不審だし。だいたい電柱の方が細いんだから(笑)」
――コントじゃないですか(笑)。
「だから車を使って調査していたんだけど、探偵をやっているときにテレビのバラエティー番組に出ちゃって『探偵やってます』って言っちゃったんですよ。そしたら行きつけレストランで飯を食っていると知らない男がやってきて『俺の不倫を調べているのか?』って。『仕事じゃねえし、つうかあんた不倫してんの?』って(笑)。それで辞めました。楽しかったですけどね」
――そんな生きるために必死だった時代でも筋トレはずっと続けていたんですね。
「人生一度きりですし、向上心だけは常に忘れないようにしていました。そうやって1日1日の積み重ねでちゃんと筋肉はついてくれるし、体もでかくなったしね」
――筋肉は自分を裏切らなかったと。でも数年前よりもさらに体が大きくなって。現在もボディービルの大会を目指しているのですか?
「実は40代最後の年に入賞を目指そうと思い、2020年の大会に出場するために減量していたんです。10キロぐらい落としたんだけど、結局コロナ禍ですべて中止になってしまい、一気にやる気がなくなっちゃってね。知り合いのボディビルダーに聞くとみんなモチベーションが下がっちゃってメンタル的にも自分を追い込むトレーニングだから、しんどくなってしまいボディービル自体を辞めた人も結構周りにはいましたね」
――坂本さんは引き続き、来るべきタイミングに備えて?
「そうですね。筋肉美で競うか、パワーリフティング系で競うか、いつでも準備できるように体を鍛えておかないといけないですね」
――現在はパーソナルトレーニングジムのインストラクターとしてご自身の健康管理も徹底されているとお聞きしました。
「徹底というか眠い時に寝て食べたいときに食べる。そんなふうに余計なストレスを溜めない生活を心がけています。食事は完全に自炊に切り替えて外食はほとんどなくなりました」
――坂本さんのSNSに大量の餃子を作る様子が紹介されていました。
「そう(笑)。コストコに行って大量に食材を買ってきて餃子とかミートソースを作って業務用みたいな冷蔵庫に作り置きしています。餃子は3時間かけて300個ぐらい包むから面倒くさいんですけど、今は作るのも食べるのも楽しいですよ。やっぱり50代になって自分を大切にするようになりましたね。健康診断もちゃんと定期的に受けていますし酒もタバコもやってない。お姉ちゃんのお店にも行かなくなりましたから(笑)」
――全盛期は彼女が1000人はいたという伝説がありましたね。
「結婚する前の話ですよ。たしかにメモ帳に書ききれないくらいの人数だったから名前も顔も覚えきれない状態でした。今は店に行ったとしても親子ほど年齢も離れていますし、そもそも話が合わないから(笑)。バツ2なんで結局1人が楽な人間なんですよ」
――坂本さんのこれからは?
「残りの人生をかけて今のパーソナルトレーニングジムを最後まで続けていくことです。昔からシルベスター・スタローンに憧れていて、彼は70超えてもいい体をしているじゃないですか。あんなダンディーな年の取り方を自分もしたいですね。70、80を超えてもできるだけ良い体形を維持してジムを続けたいです」
――いろんなことがあったタレント活動ですが、こちらも続けていくと?
「僕もいろいろと考えたんですけどタレントを辞めたところで結局、『元タレント』という肩書きになるだけですから。だったらこのままタレントのお仕事を続けて、お仕事をいただけるときは喜んでやらせてもらおうと思っています」
□坂本一生(さかもと・いっせい)1993年7月7日、新加勢大周としてデビュー。7月27日に坂本一生に改名。「新・○○」で第10回新語・流行語大賞新語部門・銀賞受賞。「元祖筋肉タレント」として活躍。千葉県八千代市でSISパーソナルジムを経営。
坂本一生パーソナルジムHP:https://isseisakamoto.com/