【緊急連載】志村けんのコメディー人生(3)「全員集合」終了、そして…
現代の喜劇王、生粋のコメディアンとして活躍中だった志村けんが突然に逝ってしまった。享年70。先輩であり盟友の加藤茶が“日本の宝”と言い、後輩の爆笑問題が“みんなが遺族”と表現して哀悼の意を表している存在。あまりにも大きな喪失感は、その年齢や急逝となってしまった経緯はもちろんのこと、老若男女から愛され、芸能界の後輩たちからも慕われた芸風や人柄によるものだろう。なによりバリバリの現役であっただけに、とてつもない悲しみ、現実を受け入れられない気持ちは国民の総意と言っても過言ではない。
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」~「志村けんのだいじょうぶだぁ」~「志村でナイト」
現代の喜劇王、生粋のコメディアンとして活躍中だった志村けんが突然に逝ってしまった。享年70。先輩であり盟友の加藤茶が“日本の宝”と言い、後輩の爆笑問題が“みんなが遺族”と表現して哀悼の意を表している存在。あまりにも大きな喪失感は、その年齢や急逝となってしまった経緯はもちろんのこと、老若男女から愛され、芸能界の後輩たちからも慕われた芸風や人柄によるものだろう。なによりバリバリの現役であっただけに、とてつもない悲しみ、現実を受け入れられない気持ちは国民の総意と言っても過言ではない。
1974年4月1日、荒井注の後釜として「ザ・ドリフターズ」の新メンバーになるも、当初は客の反応は今一つだった。長いトンネルを抜け、76年3月、人気コーナー“少年少女合唱隊”で初披露された「東村山音頭」が注目され、以降「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」と快進撃がはじまった。
その後の活躍は周知の通り。TBS「8時だョ!全員集合」はフジテレビ「オレたちひょうきん族」との熾烈な視聴率競争(土8戦争と呼ばれた)を繰り広げながら1985年秋まで続いた後、加藤と志村を主役に据えた「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」が枠を受け継ぐ。フジテレビでは「志村けんのだいじょうぶだぁ」に「志村けんのバカ殿様」、さらに「志村X」に始まる深夜枠も長く続いて、日本最高のコメディアン・志村けんの名を揺るぎないものにした。「だいじょうぶだぁ」はレギュラー終了後、「バカ殿様」とともにスペシャル番組として存続され、96年に始まった深夜枠もリニューアルしながら最後の「志村でナイト」まで24年も続くライフワークとなる。近年では舞台「志村魂」も定着していた。
平成の時代、お笑い界の“ビック3”と呼ばれた、たけし・さんま・タモリとはまた違ったポジションで存在感を示し、喜劇王と呼ぶに相応しい存在となった志村の芸風は最後まで全くぶれない、万人に愛されるような判りやすいギャグの応襲であった。いかりやも認めていたギャグを作り上げる才能は、志村の音楽好きも一助となっていたはず。特にロックやソウルミュージックに詳しく、音楽誌にディスクレビューを書いていたこともあるほどのこだわりは、リズムが重視されるギャグの誕生に大いなる影響をもたらした。「東村山」から「変なおじさん」に至るまで、アレンジも天下一品である。
アメリカの喜劇俳優、ジェリー・ルイスの映画で人生を変えられたと公言していた志村だけに、映画でもきっと代表作を遺したかっただろう。主演が決まっていた山田洋次監督「キネマの神様」を降板せざるを得なかったのは、観客の立場からしても本当に無念。奇しくも訃報が発表された日にスタートしたNHKの朝ドラ「エール」では作曲家・山田耕筰をモデルとした役に扮しており、撮影済の分はそのまま放映されるという。古希を迎えて役者仕事にも向かおうとしていた矢先の急逝。我々は大切な人を失ってしまった。それを本当に受け止められるにはまだしばらく時間がかかりそうだ。先日フジテレビで放映された追悼特番の最後、高木ブーが発した言葉は、長年を共にした仲間だからこその心の声であったと思うが、テレビを見る側にいたドリフ世代、いや国民の総意である。「志村(けん)は死なないの。ずっと生きてる」
□鈴木啓之/スズキヒロユキ
アーカイヴァー。1965年東京生まれ。テレビ番組制作会社勤務の後、中古レコード店経営を経て、ライター及びプロデュース業。昭和の歌謡曲、テレビ、映画について雑誌などへの寄稿、CDやDVDの監修・解説を主に手がける。主な著書に「東京レコード散歩」「アイドルコレクション80’s」「昭和のレコード デザイン集」「昭和歌謡レコード大全」「王様のレコード」など。