【週末は女子プロレス♯71】アメリカと日本を往来 “地球が主戦場”志田光が異国で学んだこと「価値観変わった」
実際にプロレスラーとしてデビューすることが出演条件という異色の映画で厳しいトレーニングに耐え抜き、主役に抜てきされた志田光。女子プロレス映画「スリーカウント」での役割を終えた時点で引退するつもりでいたが、完成した作品を見てプロレスの力に心を動かされ、継続を決意した。
海外を目指した理由は「ハリー・ポッター」
実際にプロレスラーとしてデビューすることが出演条件という異色の映画で厳しいトレーニングに耐え抜き、主役に抜てきされた志田光。女子プロレス映画「スリーカウント」での役割を終えた時点で引退するつもりでいたが、完成した作品を見てプロレスの力に心を動かされ、継続を決意した。
2008年8月デビューのアイスリボンから14年にフリーに転身し、現在はアメリカAEWを主戦場に日米を往来、オリジナリティーあふれる活動をおこなっている。まさか自分がプロレスラーになるとは夢にも思っていなかったという志田だが、子どもの頃から将来は海外で仕事をしてみたいとの夢は描いていたという。
「兄と一緒に英語を習い始めたんですよ。小学3年生のときでしたね。その頃からボンヤリとですけど、英語を使った仕事がしたいとは思っていました。それから海外に行きたいとずっと思ってて、何が私を本気にさせたかというと『ハリー・ポッター』。ハリー・ポッターが好きで、絶対にこの国に行ってみたいと思って、頑張って勉強していたんです」
海外に行くよりも前に、思いがけずにプロレスラーになった。藤本つかさ、松本都が映画出演から志田とともにプロレスを継続。志田のキャッチフレーズは「エースを狙え」。アイスリボンの未来を担うトップ候補として将来を嘱望されるようになったのである。
「レスラーになってからアメリカのWWEも見るようになりました。私もいつかはこんな大きな舞台に行けたらいいなとは思っていましたね。ただこれも漠然としたもので、具体的なものではなかったんですけど……」
勉強のためにWWEを見ていたという志田。団体からの期待も高く、自身はレスラーとして早く一人前と認められたい。国内のプロレスに集中し海外への夢はいったん休止状態となっていた頃、思わぬところから海外遠征の話が持ち上がる。英国の女子プロレス団体EVEがアイスリボンを招聘(しょうへい)、対抗戦の話を持ちかけてきたのだ。
アイスリボンからは代表のさくらえみを筆頭に4選手が選抜され、そのなかに“マッスルビーナス”藤本&志田が含まれていた。当然、招聘する側は志田の海外志向や英国に行きたいとの願望を知るはずがない。すべてが偶然の産物ながら、志田の夢が1度にかなったのである。
11年10月、英国ノッティンガムで「アイスリボンvsEVE」が実現。日本の女子プロレス団体がキャッチ・アズ・キャッチ・キャンスタイルの源流である英国で試合をするのはこのときが初めてであった。現地では4大会が行われ、志田はアルファ・フィーメル、ニッキー・ストーム(現ニッキーASH)、ケイ・リー・レイ(現アルバ・ファイヤー)とシングルで対戦。対戦した3選手はその後全員がWWEで活躍しているのだが、参戦時、志田にはこんな思いが脳裏をよぎったという。
「私も海外でやっていけるんだって自信がついたんですよ。いま考えるとなんでそう思ったのか謎なんですけどね(笑)。でもあのときは、日本じゃないところでもやっていけると本気で思いました。実はそれが初めての海外だったんですけど、試合をするのが楽しくて、英語も使えると分かったし、漠然としていた思いが確信に変わったんです」
振り返ってみれば、彼女が小さい頃から描いていた夢はすべてプロレスを通じてかなえられた。「女優として映画、ドラマにも出たし、歌を唄ったのもプロレスからなんですよね」。そして、プロレスラーとして海外で試合、しかもモチベーションになっていたハリー・ポッターを生んだ国だ。
しかも、これだけでは終わらない。さらなる世界が彼女を待っていたのである。WWEに対抗せんと誕生した新団体AEWからの誘いである。ただ、志田は即答しなかった。海外志向ではあったものの、日本での活動を重視していたからだ。
「当時はMAKAI(プロレス、音楽、演劇のハイブリッドエンターテインメント)が最優先で、日本を離れることはできませんと1度お断りしたんです。そうしたらMAKAIを続けながらでもできますよというお話をいただいて。AEWって選手のための団体と言っていて自由度が高いというか、契約も個人に合わせて作製してくれるんです。日本とアメリカを行き来しながらMAKAIの活動もできる。それなら断る理由はないと思って、契約しました」
AEWからのオファーが届いたのが、ちょうどデビュー10周年記念を終えた頃。ただ、AEWはあくまでも旗揚げ前の新団体だ。うわさ先行に不安はなかったのだろうか。
「けっこう不安でした(苦笑)。不安でしたけど、日本ではやり切ったかなという思いも、ちょっとあったんですよね」
次なる主戦場は“イギリスとメキシコ”?
OZアカデミーの横浜文化体育館でアジャコングを破り無差別級王座を防衛、10周年記念の自主興行を後楽園ホールで開催し、NOAHの丸藤正道と性別の枠を超えた一騎打ちの再戦を実現させた。「11年目はどうしよう?」と考えていた頃だっただけに、環境を変えるにもいいタイミングだったという。
そして飛び込んだAEW。まずは19年5月の旗揚げ戦に出場し、10月から本格的にレギュラー参戦。20年5・23ではナイラ・ローズを破り第3代AEW女子王座を初戴冠。8度の防衛に成功し、1年間ベルトを守り抜いた。つまり、AEW女子のトップとして君臨したのである。
「英語を勉強しててホントによかったなと思いましたし、中澤(マイケル)さんにもいろいろ助けていただきました。アメリカでは日本より試合数は少なくなるんですけど、生活的にはもしかしたらアメリカの方がちゃんとしているかもしれません。自分のコンディションとしっかり向き合えるようになったと思いますね」
ただし、渡米から数か月後で世界がコロナ禍に見舞われた。試合も無観客となり、不安が募った。そのなかで王者として女子部門をけん引しなければならない。
「正直に言うと、大変だったなって思いが強いです。プレッシャーがホントにすごかったし、会社も大変だった。この大変な時期に私になにができるだろうと、常に考えて悩んでました。ホントにずっともがいてる印象です。ベルト取ったのが初めて無観客でやったPPVで、そこからもずっと無観客で、ファンのみなさんに届いているのかどうかも分からなかったです。落としたのがコロナ後初めて観客を入れたPPV。その試合で退場するときに、『サンキューシダ!』ってコールが超満員の客席から沸き起こったんですね。そのとき、すべて報われた気がしました。ちゃんと届いてたんだなとわかったし、必死にやってきてよかった、王者でいられてよかったなって思えました」
コロナ禍がようやく落ち着きを見せ、今年に入り当初の予定通り日米を往来し活動することが可能になってきた。MAKAI公演が復活し、志田はAEWと日本の団体に参戦。東京女子の両国国技館初進出で凱旋し、アイスリボンでは藤本とのマッスルビーナスを復活させた。waveではシングル王座を2度目の戴冠。しかもAEWでの防衛戦まで実現させてしまったから驚いた。
「私にしかできないことをやっていきたい。それがアメリカでの防衛戦だと思って、絶対にやりたかったです。幸い、AEWからもやりましょうと言ってもらえたので実現できました」
AEW女子王者だった志田が日本のベルトを持ってアメリカに戻ってくる。となれば、その団体のベルトも海外で知られるようになる。流出とはいえ、waveにもプラスになるだろう。アイスリボンではデビュー戦の相手・星ハム子の娘である星いぶきとタッグのベルトを獲得した。志田がめざすのは、日米同時進行の活躍である。
「AEWの王者からもうワンランク上のステップに挑戦したい。それって何だろうと考えたら、日米同時に活躍してる人ってあまりいないと思うんですよね。どちらも主戦場、最前線ってほとんどいない。これはいまの私にしかできないと思います」
また、そのうえで活動範囲をさらに広げていきたいとの野望もある。
「いまちょっとロックオンしているのはイギリスとメキシコ。この2か国でも活動できたらなと思っています。いま志田がどこにいるか分からないみたいな状態になれば、それは同時に世界中に志田がいると同じことなので(笑)」
まさに“地球を主戦場”にしようとしている志田。夢を次々とプロレスでかなえていった。だからプロレスラーである以上、これからも自分がやりたいことをプロレスでやっていく。AEWを中心に、日本では自身が座長を務める演劇集団「コルバタ志田組」を来年3月に復活させる予定だという。このふり幅の広さがまた、志田の真骨頂でもある。
「アメリカでは、やりたいことをやるべきだと学びました。プロレスでも自分が見せたいものを見せるべき。それを見せられる機会ってそんなに多くないから、機会をもらったときに見せたいものをすべて出すべきだし、これが私ですというのを出すべきだと思います。やりたいこと、理想とするものをどんなに遠くても追っていいんだよって。自己肯定感と、自分だけじゃなくほかの人も肯定する。アメリカでそういうことを学んで、すごく価値観が変わりました」