アントニオ猪木さん、難病との壮絶な格闘 復活信じ「3回死にかけているけど、生きている」
1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんは晩年、次々と襲う病魔を迎え撃った。
全身アミロイドーシスは「なった人間しか分からない」
1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんは晩年、次々と襲う病魔を迎え撃った。
猪木さんの体調が急変したのは昨年5月だった。転院先の千葉の病院で体調が悪化し、都内の病院に救急搬送された。盲腸捻転により大腸の一部を切除。生死の境をさまよった。
8月に退院後は自宅で険しいリハビリが続いた。長期入院と手術の影響で体力は落ち、足腰も弱っていた。
とりわけ苦しんだのが100万人に1人と言われる難病の全身アミロイドーシスだ。アミロイドと呼ばれるたんぱく質が心臓を覆うように沈着。そのはたらきに影響を与えた。
12月のクリスマス直前、自宅を訪れると、猪木さんはベッドに横たわったままだった。
「昨日が一番きつかったかな。どういう症状かというと、はあはあって繰り返し。もう朝まで。どうにもしょうがないけど、とにかく苦しいんですよ」。呼吸において楽な姿勢はなく、痛みが全身を襲った。「手が痛いとか、ここが痛いんじゃなくて、あちこち痛みが走る」。得体の知れない病に猪木さんも攻めあぐねていた。
アミロイドの治療薬は治すためではなく、進行を遅らせるためだった。「アミロイドのことはみんな知らない。なった人間しか分からない。患者の人数がいないでしょ。データがないからこの薬がいいとかも分からない」。猪木さんはいつしか薬の使用をやめた。
「もう、たぶん自分の頭と体がバラバラなんだよね。頭には昔(のイメージ)があるし、体は現実」
突き付けられた現状を直視し、病床でつぶやいた。動かしたくても、動かない体。はしを持てず、筆を握ってサインを書くことも困難になった。
それでも猪木さんは復活を諦めなかった。2月の79歳の誕生日週には親しい友人を招いて、食事会を開いた。強心剤の点滴を打ちながら、「3回死にかけているけど、生きている。医者もびっくりするくらい回復した。ここまでするとは思っていなかったようだ」と話した。病気との戦いで劣勢をはね返している。その表情はどこか誇らしげだった。
文字を書けなくなった猪木さん 胸にあふれた思いは…
「本当はもう逝ってる。逝かないっていうことはごめんなさい、役割があるんだろうな」
役割とは? 一つは世間に認知されていない病名が広く知られるようになることだった。YouTubeでは闘病の様子を積極的に発信した。もう一つは、ゴミを瞬時に燃やす水プラズマの実用化。「水プラズマも何とか世に出してほしい。世界のゴミ問題は今、本当に手の打ちようがない」と地球規模での課題解決に情熱を燃やしていた。
体が弱り、コロナ禍で感染症はもらいやすい状況にあった。それでも病院にいることより、自宅で自分らしく生活することを猪木さんは望んだ。
「短期間でも誰か来てくれるのが一番うれしい。とにかく話し相手がほしい。病院のときは、天井眺めて……。だんだん声も小さくなっちゃうし、言葉のキレもなくなっちゃう」。誰よりも「元気」を売りにしてきた猪木さん。体調に波がある中でも、前に進もうと必死に努力していた。
一時期、文字を書けなくなった猪木さんが最初に練習した言葉がある。
それは「ありがとう」の5文字だった。なぜ、この言葉を書こうと思ったのか。
「いろんな感謝をしています。言葉は山ほどあるけど、俺は今、『ありがとう』。5つのひらがな、全てそのなかに集約される」
やり残したことはまだあったかもしれない。でも、これだけは伝えたかった。「アントニオ猪木」を応援し、支えてくれたすべてのプロレスファン、仲間、そしてスタッフや医療従事者へ。
猪木さんはやすらかな表情で眠っているはずだ。